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イリフとペトロフの執筆風景|同時代の作家グリゴリー・ルィクリンの回想

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▷ Г. Рыклин. Эпизоды разных лет //Г. Мунблит. А. Раскин. Воспоминания об Ильфе и Петрове. М.: Советский писатель. 1963. から一部を抜粋して訳出 _______ 1932年、雑誌「クロコジール」は10周年を迎えた。(中略)編集部は特別記念号の準備をはじめた。 特別記念号(1932, No.15-16)表紙 その号には、その他もろもろのほかに、トルストエフスキーの時事コラムを載せることになっていた。若い読者にことわっておきたいのだが、イリフとペトロフは当時、このトルストエフスキーというペンネームをしばしば使っていた。そして、締切の日、イリフとペトロフは手ぶらで編集部に現れた。この上なく善良で愛すべき、当時の編集長ミハイル・ザハーロヴィチ・マヌイルスキーは、内心激怒していたが、表に出して怒ることができなかった。不注意なふたりを叱責する技量はなかった。 「同志よ!」彼は、イリフとペトロフに向かって言った。「いかんよ… なんてこった、いかん… わかるだろう、いかんのだよ…」 「明日は大丈夫です」とイリフが言った。 「明日の朝早くに持ってきますから」とペトロフが付け足した。 「がむしゃらに、徹夜でやります」とイリフが言った。 「飲まず食わずで、寝ずにやりますから」とペトロフが付け足した。しかし、編集長は承知せず、その声はざらついてきた。 「そこの机に座ってやってくれ」と彼は言った。「コラムが書き上がるまで、その場を離れんでくれ。いいな?」 「しかたがない、書くしかないのさ!」こう叫んだのが誰だったか私は覚えていないが、目的は達せられた。彼らは部屋の隅の小さなテーブルについて仕事にとりかかり、その間、周りの誰にもまったく注意を向けなかった。その場には、座っている者、タバコを吸う者、おしゃべりする者、騒音を立てる者がいたのだが。机に向かって腰かけたイリフが、厳かにこう言った。 「コラムの書き出しはこうだ、〈記念日を陰気にして申しわけない〉。」そうして10分ほどすると、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ 〔訳注:ペトロフ〕 が、作品のテーマが垣間見える草稿をイリフに読んでいるのが耳に入ってきた! 「読者は、乗客であるときと同じくらい、注意深くないといけない。警戒していな...

イリフとペトロフの執筆風景|同時代の作家ヴィクトル・アルドフの回想

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▷ В. Ардов. Чудодеи //Г. Мунблит. А. Раскин. Воспоминания об Ильфе и Петрове. М.: Советский писатель. 1963. から一部を抜粋して訳出 _______  私が共同執筆中の彼らを見かけたのは、一度や二度ではない。最初のそれは『黄金の仔牛』で、それから『プラウダ』の時事コラム、脚本やその他の作品などだった。私は証言できる。我々の親しい友である彼らは、いつも一緒に、手間を惜しまず書いていたと。執筆の技術的な過程を遂行していたのはペトロフだった。いつも彼がテーブルに座って、均整のとれた美しい筆跡で、何枚も何枚も書いていった。その間、イリフは、深く柔らかな肘かけ椅子に腰かけているか、部屋の中を歩き回って、二本の指で、額の上のごわごわした自分の前髪をいじっていた… それぞれが、無制限の拒否権を持っていた。どんな文章も、フレーズも、語も、両者が合意するまで、一語一句書くことはできなかった(筋書きや、キャラクターの名前、性格については言うまでもない)。意見の食い違いから、激しい口論や怒号が飛び交うこともよくあった(特にペトロフはこの方面に熱心だった)。しかし、書かれたものは、まるで鋳ぬかれた金属製の装飾の細部のように、すみずみまで仕上げられ、完成の域に達していた。イリフとペトロフの細やかな誠実さは、本に収める材料の選定にも及んでいた。ペトロフが冗談半分にこう言ったことがある。 「この二つの長編に僕たちが込めた観察や思考や創造物は、あと十冊書くにも足りるほどだよ。まったく不経済だ... 」  彼らが書いている部屋に入っていくとしよう、するとイリフが真っ先にこちらを向き、次にペトロフが驚くほど優しい笑みを浮かべてペンを置く。 「ジェーニャ 〔訳注:ペトロフ〕 、最後の部分を、笑い上戸のこの人に読んでやってくれ」とイリフが言う。ペトロフ自身、すでに嬉々として、親しい聞き手のために、できたばかりの一行一行を点検している。そして、ペトロフが読んでいくと、イリフはその一節の言葉を、少し先んじて、声に出さずに囁く(自分の文章に対してこのように知悉していることは、散文を書く者にはとても珍しい。作品がゆっくりと、愛情をもって書かれていることを示している)。  一...

2022年8月〜11月の記事まとめ

▷ 緑字 のところをクリックすると、各記事にジャンプ ▷以前のまとめ記事も #まとめ というハッシュタグから検索可能 翻訳 ( * コメンタリー) 『戸籍登録員の過去』(1929年)(4/5) 結婚と放蕩 『戸籍登録員の過去』(1929年)(5/5) ふたたび1913年 * 『戸籍登録員の過去』コメンタリー 『十二の椅子』『黄金の仔牛』関連 『十二の椅子』の映像化作品 ポスタービジュアルや本編映像 イリフ&ペトロフと同時代の作家たち エレンブルグによる回想『諷刺作家イリフ、ペトロフ』 ブルガーコフ『運命の卵』のなかのオデッサ言葉 イリフ&ペトロフの文学的遍歴 雑誌『クロコジール』とその掲載作 新聞『プラウダ』とその掲載作 作品年表をつくってわかった、イリフとペトロフのターニングポイント

映画/ドラマでみる『十二の椅子』(レオニード・ガイダイほか)

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イリフとペトロフの代表作『十二の椅子』の映像化作品で有名なのは、レオニード・ガイダイ監督による1971年の映画。 キノポイスクという映画紹介サイトの「映画トップ250」 では、今でも100番台にランクインしていることが多い。 画像出典:kinopoisk.ru このガイダイ監督作以外にも、『十二の椅子』は10回近く映像化されている。 この記事では、そうした映像化作品を古い順に紹介。 ▼目次 1932年、チェコスロバキア・ポーランド (マーティン・フリッチ、ミハウ・ワッチンスキ) 1962年、キューバ (トマス・グティエレス・アレア) 1966年、ソビエト (アレクサンドル・ベリンスキー) 1969年、イタリア・フランス (ニコラス・ジェスネル、ルチアーノ・ルチグナーニ) 1970年、アメリカ (メル・ブルックス) 1971年、ソビエト (レオニード・ガイダイ) 1976年、ソビエト (マーク・ザハーロフ) 2004年、ドイツ (ウルリケ・オッティンガー) 2005年、ロシア・ウクライナ (マクシム・パペルニク) 2016年、リトアニア (アルギス・ラマナウスカス) 2023年、ロシア (ピョートル・ゼリョーノフ) どの作品でも「12脚ある椅子のどれかにお宝が埋まっていて、それを探して2人組がドタバタ劇を演じる」という基本プロットは同じのため、かなり翻案されている場合でも、字幕のない動画でも、迷子になることなく楽しむことができる。 *姉妹記事: 映画/ドラマでみる『黄金の仔牛』(ウリヤーナ・シルキナほか) はこちら。 _______ 1932年、チェコスロバキア・ポーランド 原題:Dwanaście krzeseł  監督:マーティン・フリッチ、ミハウ・ワッチンスキ 画像出典:kinopoisk.ru Youtubeで視聴可能(字幕なし)。 人物設定など、かなり改変されているようだ。 _______ 1962年、キューバ 原題:Las doce sillas 監督:トマス・グティエレス・アレア 画像出典:kinopoisk.ru Youtubeで視聴可能(英語字幕あり)。 _______ 1966年、ソビエト 原題:12 стульев 監督:アレクサンドル・ベリンスキー 画像出典:kinopoisk.ru ソビエトでの映像化は、ガイダイ(1971年)が最初で...

ブルガーコフ『運命の卵』のなかのオデッサ言葉

ブルガーコフ『運命の卵』(1924年)の中に、エヴゲーニイ・ペトロフがモデルの新聞記者が登場する。次の場面に登場するブロンスキイという人物で、変なロシア語を話すということにされている。この「変なロシア語」を検討するための記事。 『運命の卵』あらすじ: 1928年のモスクワで、世界的な動物学者ペルシコフ教授が発見した奇妙な光線によって動物が異常増殖したり次々に死んだりする事件が起きる。最初はカエル、次はニワトリ…巷が異変に気づいて騒ぎ始めるのと前後して、事件を嗅ぎつけた記者や当局関係者など、怪しい人間が次々とペルシコフ教授を訪問しはじめる。 _______ 〔ペルシコフ教授が〕 いくぶん好奇心すら覚えて窓の外を覗いてみると、アリフレッド・ブロンスキイが歩道に立っているのが目に入った。教授はさきの尖った帽子と手帳から、その男が肩書のたくさんある名刺の持ち主であったことをすぐに思い出した。ブロンスキイは愛想よく、恭しく窓に向かってお辞儀した。 (中略) 「 教授、 ほんの二分ばかり お邪魔させていただきたいのですが」ブロンスキイは声を張りあげて、歩道から話しだした。「ほんのひとつ、純粋に動物学的な質問をさせていただきたいのですが。よろしいでしょうか?」 「 言ってみたまえ」そっけなく、皮肉な調子でペルシコフは答えて、〈それでもやはり、この悪党には、どことなくアメリカ的な調子のよさがある〉と思った。 「 教授、 鶏のために どういうご意見がありますか?」ブロンスキイは両手を口に当てて叫んだ。  ペルシコフは驚いてしまった。窓台に腰をおろしたが、やがてそこから降りると、ベルを押し、窓のほうを指で示しながらどなった。 「 パンクラート、歩道に立っているあの男をお通ししなさい」  ブロンスキイが研究室に現れたとき、ペルシコフはきわめて愛想よく歓迎し、「おかけください」と椅子をすすめたほどだった。  するとブロンスキイは、感激のあまり満面に笑みをたたえながら、回転椅子に腰をおろした。 「どうか説明してほしい」とペルシコフは口を切った。「新聞に書いたのはあなたですね?」 「確かに、そのとおりでございます」とブロンスキイは丁寧に答えた。 「それにしては、どうも理解できないのだがね、ロシア語を満足に話すことさえできないのに、どういうふうにして書くことができるのですかね。《 ほんの二分ばか...

イリヤ・エレンブルグによる回想『諷刺作家イリフ、ペトロフ』

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▷エレンブルグ『わが回想 人間・歳月・生活 4』木村浩、朝日新聞社、1965年、18〜27頁からの抜粋。 イリヤ・エレンブルグ(1891-1967) ▷イリヤ・エレンブルグによる回想録『人間・歳月・生活』は、1960年からリベラル派の雑誌『ノーヴィ・ミール』に掲載された。下記の部分は1962年掲載分。 ▷抜粋部分は、1963年出版の同時代人らによる回顧録『イリフとペトロフの思い出』にも再録されている。 ▷イニシャルのロシア語読みは馴染みが薄いと思われるため、アルファベットに変更(イー・アー・イリフ→I・A・イリフなど)。 ▷〔〕内はブログ注。 _______ 諷刺作家イリフ・ペトロフ  I・A・イリフ、E・P・ペトロフの二人とは一九三三年モスクワで知合ったが、彼らと親密になったのはその一年後、彼らがパリにやってきた時だった 〔エレンブルグ43歳、イリフ36歳、ペトロフ31歳〕 。当時は、わが国の作家たちが海外旅行する場合、よく不測の椿事がおこったものであった。イタリアまでイリフとペトロフはソヴィエトの軍艦に便乗して辿り着き、また同じ軍艦で帰国するつもりでいたのが、予定を変更し『十二の椅子』の翻訳に対する印税をもらうことをあてこんで、ウィーンへ出かけていった。やっとのことで翻訳者からいくらかの金を取りたてると、彼らはパリに向った。  私の知合いに、ある泡沫的な映画会社で働いていたロシア系の婦人がおり、とても人の良い女性であった。私が、イリフとペトロフ以上に喜劇映画の立派なシナリオを書ける人物はいないといってその婦人を説き伏せたおかげで、二人は前金をもらうことが出来た。  私が早速、宝くじで当てた炭坑夫とパン屋の話 〔実際に宝くじで五百万フランずつ当てた人たちで、当時のフランスの新聞をにぎわせていた〕 を彼らに伝授してやったことはいうまでもない。二人は毎日のようにたずねるのだった−−「例の百万長者氏たちの件で、新聞に何かニュースは載ってませんか?」。そして話がシナリオのことに及ぶや、ペトロフはいった−−「書出しは出来てますとも。ある貧乏な男が五百万という大金を当てて…」  二人はホテルに閉じこもって精出して書き、晩方になると「クーポル」へやってきた。このバーで私たちはいろいろと喜劇的シチュエイションを考え出した。二人のシナリオ作者の他に、サーヴィチ、画家アリトマン、ポー...

イリフ&ペトロフの転換点、1932年4月に起きたこと

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▷イリフとペトロフの作品を掲載媒体別に時系列で並べると、明らかに1932年4月の前後で活躍の場が変わっていることがわかる。 代表作の『十二の椅子』(1928年)と『黄金の仔牛』(1931年)は、文学的キャリアの前半に書かれているが、文学的な転換点はそれより後の1932年4月にある。それ以降、権威のある媒体での仕事が増えているからだ。 掲載媒体に注目してまとめると、こうなる。 _______ 『十二の椅子』を発表(1928年)  ↓ ユーモア雑誌〈チュダーク〉に作品を発表しはじめる グラビア雑誌〈アガニョーク〉に作品を発表しはじめる  ↓ 『黄金の仔牛』を発表(1931年)  ↓ 〈ソビエト芸術〉に作品を発表しはじめる  ↓ 1932年4月:転換点  ↓ ユーモア雑誌〈クロコジール〉に作品を発表しはじめる *プラウダが発行元 新聞〈文学新聞〉に作品を発表しはじめる *ソビエト作家協会の機関新聞 新聞〈プラウダ〉に作品を発表しはじめる *プラウダが発行元  ↓ プラウダの特派員としてアメリカを旅行(1935年〜1936年)  ↓ アメリカ旅行の写真と紀行文を〈アガニョーク〉〈ズナーミャ〉に発表(1936年) *ズナーミャは当時ソビエト作家協会の機関紙 _______ 1932年4月以降、如実に、権威ある媒体(共産党紙プラウダや、ソビエト作家協会が発行する媒体)に寄稿するようになっている。 では、1932年4月にいったい何が起きたのかというと、それは当時の文壇を牛耳っていた ラップ(ロシア・プロレタリア作家協会) の解散。ラップは当時存在した文学団体のひとつにすぎないが、その一方で、党の文芸政策に多大な影響力を持つ、文壇の支配的団体だったようだ。当時、他派の作家に対し厳しく批判するなど攻撃的にふるまっていたらしい。イリフとペトロフに対しては、彼らは黙殺するという態度をとっていた。歴史学者ルリエの『恐れを知らぬ馬鹿者どもの国で』という本には、「ラップが解散するまで、イリフとペトロフには(文学的な)生存権が与えられていなかった」という趣旨のことが書かれている。 _______ ラップという重荷が取り払われた1932年4月を境として、イリフとペトロフは活躍の場を広げていくわけだが、もうひとつ興味ぶかいのは、「ラップによって文壇から黙殺されていたキャリアの前半期にも、彼らはコンス...

新聞『プラウダ』と、イリフ&ペトロフ掲載作

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▷イリフ&ペトロフの作品を掲載誌別に時系列で整理 ▼新聞『プラウダ(真実)』とは レーニン率いる共産党(ボリシェビキ)が 1912年に創刊した新聞。 ソビエト政権樹立後、党の機関紙として絶大な影響力を持った。 『プラウダ』1936年341号。 イリフ&ペトロフ『人のよいクリャトニコフ氏』掲載 イリフとペトロフは1932年12月から寄稿するようになり、『プラウダ』の特派員として、1935年の秋から1936年初頭にかけて、アメリカ旅行にも出かけている。 ペトロフは、イリフの死後(1937年以降)も単独で執筆・掲載を続けた。 ▼新聞『プラウダ』掲載のイリフ&ペトロフ作品 (末尾の日付=新聞の 発行日) 1932年  『ロビンソンはいかにして創られたか』 Как сознавался Робинзон (10月27日) 『1を楽しんで』 Веселящаяся единица (11月12日) 『無関心』 Равнодушие (12月1日) 『KLOOP』 Клооп (12月9日) 1933年 『ガチョウを携えた男』 Человек с гусем (1月18日) 『工場長の尋常ならざる苦悩』 Необыкновенные страдания директора завода (3月26日) 1934年  『指令のリボン』 Директивный бантик (3月19日) 『カツレツを片付けたまえ』 Уберите ваши котлеты (3月25日)  *全集未収録  『愛しのトラム』 Любимый трамвай (4月7日)  *全集未収録  『愛は相互献身であるべし』 Любовь должна быть обоюдной (4月19日) 『がりがりの一本足』 Костяная нога (5月19日) 『お茶の席での会話』 Разговоры за чайным столом (5月21日) 『男の死』 Человек умер (6月13日)  *全集未収録  『りっぱな客人たち』 Чудесные гости (6月28日) 『楽して稼ぐ心意気』 Дух наживы (7月11日) 『サモワールのそばで』 У самовар...

雑誌『クロコジール』と、イリフ&ペトロフ掲載作

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▷イリフ&ペトロフの作品を掲載誌別に時系列で整理 ▼雑誌『クロコジール(鰐)』とは 1922年からモスクワで発行されていた風刺雑誌。最初は『労働新聞』の付録という扱いだった。 元々は週刊だったが、1932年から10日に1回の発行になった。 1932年以降はプラウダ出版所が発行元。 『クロコジール』1932年24号表紙。イリフ&ペトロフ『予約席』掲載号 イリフとペトロフの共同執筆作品が載るようになったのは、1932年以降。 1932年の24号まで、ふたりはトルストエフスキーという筆名で書いていた。 (この筆名は、別の 風刺雑誌『チュダーク』 でも使われていた) 『クロコジール』は、政治的に正しい風刺対象を指定する指針をつくっていたことがわかっている。(くわしくは 「リュドミラ・サラスキナによるイリフ&ペトロフ批評」 という記事を参照) ▼雑誌『クロコジール』掲載のイリフ&ペトロフ作品 (末尾の№=雑誌の号数) 1924年 『雑費』Накладные расходы (№ 27)  * ペトロフ単独作、 全集未収録 1925年 『陽気な連中』Веселые ребятки (№ 28)  * ペトロフ単独作、 全集未収録 1932年 『燃えてはいるが、燃え尽きてはいない』Горю —и не сгораю (№ 10) 『ここで船に積荷する』Здесь нагружают корабль (№ 11) 『4つの会見』Четыре свиданья (№ 12) 『天使の誕生』Рождение ангела (№ 13) 『贅沢による責め苦』Пытка роскошью (№ 14) 『実のところ、私は作家ではありません』 Я, в общем, не писатель (№ 15—16) 『おしゃべりしたくなる』 Хотелось болтать (№ 18) 『謎めいた性格』Загадочная натура (№ 22) *ペトロフ単独作 『勝利者』Победитель (№ 23) *全集未収録 『予約席』Бронированное место (№ 24) 『Ich bin 全身』Их бин с головы до ног (№ 31) *全集未収録 1933年 『否定的タイプ』Отрицательный тип (№ 1) *全集未...

短編『戸籍登録員の過去』(1929年)訳 5/5

▷イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』の外伝的作品 ▷『十二の椅子』の主人公ヴォロビヤニノフの過去 ▷本文中の緑字は訳注あり(クリックで コメンタリーページ へ遷移)   _______ (はじめから読む) (4から読む)    時は一九一三年だった。   フランス人飛行士のブランデンジョン・ドゥ・ムリネ が、かの有名なパリ=ワルシャワ間の飛行を成し遂げ、ポメリー社の賞金を得た。麦わら帽をかぶり、白いレースの日傘を持った婦人がたや、ギムナジウムの上級生たちが、歓喜の声でこの空の勝者を出迎えた。困難な体験を経たにもかかわらず、彼は自分に力がみなぎっているのを感じ、すすんでロシアのウォッカを飲んだ。  生が泉のように湧きでていた。  モスクワのアレクサンドロフスキー駅では、専門学校の女学生や、ポーターや、〈自由美学〉協会のメンバーらが集まって、 ポリネシアから戻ったコンスタンチン・バリモント を出迎えていた。丸々した頬の貴婦人が、最初に、山羊髭を生やした吟遊詩人に濡れたバラを投げ込んだ。春の花、スズランが詩人に降りそそいだ。最初の歓迎スピーチが始まった。 「親愛なるコンスタンチン、七年もの間、あなたはモスクワを不在にしました…」  詩人へのスピーチのあと、弁護士出身の崇拝者が人をかき分けて進みでて、詩人に花束を手渡しながら、あらかじめ暗記してきた即興詩を披露した。    雨雲から   太陽の光、   それは君の化身。   君の威風、   君のメロディー、   君は本物だ。  その晩、〈自由美学〉協会で開かれた祝賀会は、新未来派のマヤコフスキーの演説で暗転した。彼は、高名な吟遊詩人のそばであれこれ見聞きしてこう言ったのだった、「挨拶がどれも自分のよく知った人からだということに、彼は驚かないのでしょうか」。しいっ! ピーッ! といった警告音が、新未来派詩人の言葉にかぶさった。  二人の若者、二十歳のガイスマール男爵と、外務省高官の息子ダルマトフが、映画館で予備役准尉の妻マリアンナ・チーメと知り合い、そして 強奪目的で彼女を殺害した。  映画館では、しわくちゃのスクリーンの上で、ロシア生活の三方面における心を打つドラマが上映されていた。『ブティルスカヤ公爵夫人』、世界の事件のニュース映画『エクレール=ジャー...

短編『戸籍登録員の過去』(1929年)訳 4/5

▷イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』の外伝的作品 ▷『十二の椅子』の主人公ヴォロビヤニノフの過去 ▷本文中の緑字は訳注あり(クリックで コメンタリーページ へ遷移)  _______  (はじめから読む) (3から読む)  生活は陽気に、飛ぶように過ぎていった。イポリート・マトヴェーヴィチを落とそうとする進取の気性をもった女性はもういなかった。彼はふしだらな独身男であると誰もが考えていた。すると一九一一年に突然、ヴォロビヤニノフは隣人である裕福な女地主ペトゥホワの娘と結婚した。このような事態となったのは、名うての独身男である彼が領地に立ち寄った際、自分の身代が傾き、有利な結婚をしないと立て直すことは不可能であるとみてとった後のことであった。最大限の結婚持参金を得られそうなのが、ひょろりとして大人しい性格のマリー・ペトゥホワ嬢だった。二ヶ月間、イポリート・マトヴェーヴィチはマリーの足元に白いバラを積みあげ、三ヶ月目にプロポーズをして、結婚をし、そして郡の貴族団長に選出された。 「ねえ、あなたの骸骨ちゃんは元気?」エレーナ・スタニスラヴォヴナはやさしくそう尋ねるのだった。結婚してからというもの、イポリート・マトヴェーヴィチは以前より足しげく彼女のもとに立ち寄るようになっていた。  イポリート・マトヴェーヴィチはそれに答えて、笑いにむせびながら、陽気に歯を見せて言うのだった。 「よしてくれ、正直に言うが、彼女はとてもかわいらしい人だよ、ひどく幼くはあるけれどね…。姑のクラヴジヤ・イヴァーノヴナときたら! …あの人はぼくを〈エポレート〉って呼ぶんだ。パリではそう発音すると思ってるのさ! 傑作だよ!」  年を追うごとに、イポリート・マトヴェーヴィチの生活は目に見えて変わっていった。彼は早くにきれいな銀髪となった。ちょっとした習慣ができた。 朝目覚めると、自分に向かって〈グーテン・モルゲン〉あるいは〈ボン・ジュール〉と言う習慣 だ。子どもっぽいことに熱中するようにもなった。地方切手の収集をはじめ、それに多額のお金をつぎこんで、気がつけば早々に国内で一番の収集家となり、ロシア地方切手の完全なコレクションを有するイギリス人エンフィールド氏と活発に手紙のやりとりをし始めた。同種の切手収集の分野で、このイギリス人に先んじられていることがイポリート・マトヴェー...

2022年7月までの記事まとめ

▷ 緑字 のところをクリックすると、各記事にジャンプ ▷他のまとめ記事も、 #まとめ というハッシュタグから検索可能  翻訳 ( * コメンタリー) ▼ペトロフによる回想録(1939年) 『イリフの思い出より』(1/4) アメリカ旅行 『イリフの思い出より』(2/4) 『グドーク』編集室 『イリフの思い出より』(3/4) 『十二の椅子』執筆 『イリフの思い出より』(4/4) イリフの手帳 * カターエフと『十二の椅子』 ▼コラム 『オデッサへの旅』(1929年) イリフ単独執筆 『劇場の話』(1935年) * 『劇場の話』コメンタリー メイエルホリドと戯曲『33の失神』 ▼短編小説 『KLOOP』(1932年) * 『KLOOP』とスターリン 『戸籍登録員の過去』(1929年)(1/5) 1913年の事件 『戸籍登録員の過去』(1929年)(2/5) ギムナジウム時代 『戸籍登録員の過去』(1929年)(3/5) 恋愛と放蕩 『戸籍登録員の過去』(1929年)(4/5) 結婚と放蕩(22年8月更新予定) 『戸籍登録員の過去』(1929年)(5/5) ふたたび1913年(22年9月更新予定) * 『戸籍登録員の過去』コメンタリー 『十二の椅子』『黄金の仔牛』関連 オスタップ・ベンデルの復活 続編の構想 上田進『黄金の仔牛』あとがき 1958年版では抄録されているあとがきの全録 後世の評価の紹介 ▼ナボコフ ナボコフのイリフ&ペトロフ評 ナボコフの手紙(1937年4月15日) ▼現代のロシア文学者 リュドミラ・サラスキナによるイリフ&ペトロフ批判 作品の掲載媒体に関する記事 雑誌『チュダーク』とその掲載作 ユーモア風刺雑誌 雑誌『アガニョーク』とその掲載作 グラビア雑誌 雑誌『30日』とその掲載作 文芸誌 雑誌『クロコジール』とその掲載作(22年8月更新予定) 新聞『プラウダ』その掲載作(22年8月更新予定)

時事コラム『劇場の話』コメンタリー:戯曲『33の失神』とメイエルホリド

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『劇場の話』(1935年)とは メイエルホリド演出の戯曲『33の失神』にまつわる時事コラム。『プラウダ』に掲載された。( 当サイトによる全訳 ) 戯曲『33の失神』とは チェーホフの書いたヴォードヴィル『創立記念祭』『熊』『結婚申込』をオムニバス形式にまとめた演劇作品で、チェーホフ生誕75周年を記念して、1935年3月25日に初演された。(なお、『劇場の話』で言及されているのは、初演から2週間後の4月8日のこと) 『33の失神』を演出したメイエルホリドとは モスクワ芸術座の俳優としてキャリアをスタートし、芸術座を退団してから演出へと転向して、つぎつぎと斬新な作品を発表しロシア内外の注目を集めた演出家。とくに革命前後の1910年代から1920年代にかけて、華々しく活躍した。 メイエルホリド …当時いかにメイエルホリドの名声が高かったか、その一端をわれわれは一時期メイエルホリドの私設秘書を務めたアレクサンドル・グラトコフの回想からうかがうことができる。それによると、 「メイエルホリドの名を知らぬ者はいなかった。劇場に一度も足を運んだことのない者にすらその名は知れ渡っていた」という。(『メイエルホリド・ベストセレクション』377ページ) 1930年代のメイエルホリドは、新しい演出を試すことよりも、これまで試みた手法を定着させ、完成度を高めることを目指していたようで、そのことによって目新しさが減じたのか、『33の失神』が上演された1935年ごろには、その名声は下降ぎみだった。 『33の失神』という作品自体も、その凝った(凝りすぎた)演出が観客に受けず、失敗作だと評されていた。 しかしそれは状況を俯瞰的にみたばあいの話であって、もう少し虫眼鏡的な視点でみれば、『劇場の話』にあるとおり、1935年当時もメイエルホリド劇場には人々がつめかけていたし、その中には海外からやってきた観客もいた。 イギリスの演出家ゴードン・クレイグは1935年にモスクワを訪れてメイエルホリドの舞台を観たひとりで(『33の失神』を観たかどうかはわかりません)、つぎのようなコメントを残している。 「できることなら私はもう一度ロシアに出かけて、メイエルホリドの仕事をつぶさに見てみたいと思う。…もしモスクワに行けたなら、文字通り悦んで数週間ものあいだ客席に自分を縛り付け、メイエルホリド劇場のリハーサルや芝居を見...

時事コラム『劇場の話』(1935年)全訳

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▷緑字は末尾に注あり。 _______  劇場へ出かけようとしている人間の心持ちは、複雑ではないが、とても愉快なものである。午前の勤務中、仕事のあいまに、さも大ごとであるかのようにこう言ったりする。 「今日は劇場にいくんだよ、だから、今晩の 文化攻略イベント には、参加できないと思う」  家に帰ると、彼の耳には、隣の部屋の妻が誰かにむかって電話口でこんなふうに話しているのが聞こえてきて、気持ちをくすぐる。 「残念ですけど、今晩、パヴリックと私は家にいないんですよ。パヴリックとメイエルホリド劇場に行くんです。いいえ、とんでもない、真ん中の五列目なんですよ。わたしたち、五列目より後ろには座ったことがないんです」  パヴリックには、妻が嘘をついたことがわかっている。もっと後ろのほうの席に座ることなどしょっちゅうだし、今回五列目を買ったのは、単に、もっと安い席がもうなかったからで、しかし、わかっているとはいえ妻の言葉は耳に心地がよい。結局のところ、誇らしい感覚というのはわれわれ同時代人に無縁のものではない。  五歳になる娘でさえも、中庭で遊んでいた女の子たちにむかって、バルコニーから、 「パパとママはね、きょう『三つの失神』に行くの」と甲高い声で叫んでいる。 「『三十三の』、だよ」やせぎすのパヴリックが、誇らしさから身をふくらませながら訂正する。「何度も言ったじゃないか!」  この日はふだんより早めに食事をとる。急がなくてはならない、なぜなら、第三のベルのあとでは、観客ホールへ入場できなくなってしまうからだ。観客ホール、第三のベル、リベレット 〔パンフレットのあらすじ〕 、非常口、チケットの売り子… 概して、こうしたすべての言葉は驚くほどこころよい。 身じたくは公演の二時間前に始める。と、ここで当然のように、カフスボタンが落ちてどこへ行ったやらわからなくなっており、襟には下手なアイロンのせいで小ジワがよっていて、双眼鏡はヴラーソフ一家が持っていったままもうひと月も返ってきていない、ということが判明する。これでは単なる無作法者で、受けられる恩恵も受けられない。最終的には、すべてに片がつく。カフスボタンは見つけだされ、襟にはアイロンがあて直され、双眼鏡はまったく必要がなくなる、座席は五列目なのだから、そこからはなにもかもが素晴らしくよく見えるのだ。  ところが最後の瞬間になって...

雑誌『30日』と、イリフ&ペトロフ掲載作

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▷イリフ&ペトロフの作品を掲載誌別に時系列で整理 ▼雑誌『30日』とは 1925年から1941年までモスクワで発行されていた月刊文芸誌。 イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』と『黄金の仔牛』はこの雑誌に掲載された。 『十二の椅子』が掲載されたときの編集長はレギーニンという人物。 『30日』1934年 No.10の表紙 ▼雑誌『30日』掲載のイリフ&ペトロフ作品 (末尾の№=雑誌の号数) 1928年 『十二の椅子』Двенадцать стульев (№ 1—7) 『モスクワ、その夜明けから日没』Москва от зари до зари (№ 11)  *イリフ単独作 『ピューリタンとドラム奏者』Пуритане и барабанщики (№ 12)  *イリフ単独作、全集未収録 『褐色の町』Коричневый город (№ 12)  *ペトロフ単独作、全集未収録 1929年 『討論は人生を彩る』 Диспуты украшают жизнь (№ 3)  *イリフ単独作 『戸籍登録員の過去』Прошлое регистратора загса (№ 10) 1930年 『気をつけろ!ずっと風に煽られるぞ!』Осторожно! Овеяно веками! (№ 6)  *全集未収録 1931年 『黄金の仔牛』Золотой теленок (№ 1—7, 9—12) 1933年 『強い感情』Сильное чувство (№ 5) 『あふれんばかりの幸福のために』Для полноты счастья (№ 6) ▼参考文献・サイト Ильф И., Петров Е. Собрание сочинений в 5 томах. М. 1961 Паустовский К. Г. Собрание сочинений в восеми томах. Т.5. М. 1968. С.91-99 Произведения Ильфа и Петрова https://fantlab.ru/work1001680 ▼画像出典 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/%D0%9E%D0%B1%D0%BB%D0%BE%D0%B6%D0%B...

雑誌『アガニョーク』と、イリフ&ペトロフ掲載作

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▷イリフ&ペトロフの作品を掲載誌別に時系列で整理 ▼雑誌『アガニョーク(ともしび)』とは 帝政ロシア時代(1899年)、大衆向けのグラビア雑誌としてペテルブルグで創刊。 1923年からはソビエト作家同盟の機関紙としてモスクワで発行されるようになった。 週刊(1931年から1941年の開戦までは10日に1日の発行)。 『アガニョーク』1930年 No.6の表紙 初代編集長はミハイル・コリツォフ(1923〜1938年)。 コリツォフが逮捕された後、ペトロフも編集長をつとめた(1940年12月〜1942年7月)。 ソビエト末期のペレストロイカ期には、それまで発禁になっていたブルガーコフやメイエルホリドの作品を掲載した。 ソビエト崩壊後は独立誌となる。2009年、大手新聞社コメルサントに買収された。 ▼雑誌『アガニョーク』掲載のイリフ&ペトロフ作品 (末尾の№=雑誌の号数、または発行日) 1927年 『信じがたいことだが…』Невероятно, но... (№ 49)  *ペトロフ単独作、全集未収録 1928年 『フリストフォル・ザメルザクの熱狂』Увлечение Христофора Замерзаки (№ 8)  *ペトロフ単独作、全集未収録 『31点』Тридцать одно очко(№ 10)  *ペトロフ単独作、全集未収録 『高潔な人』 Светлая личность (№ 28—39) 1929年 『アヴクセンチイ・フィロソプロ』Авксентий Филосопуло (№ 44) 1930年 『放蕩息子の帰還』Блудный сын возвращается домой (№ 2)  *イリフ単独作、全集未収録 『機械の横行』Разгул техники (4月10日号)  *全集未収録 『愉快な冒険』Приятные исключения (№ 11)  *ペトロフ単独作、全集未収録 『アーティストの気まぐれ』Каприз артиста (№ 12)  *全集未収録 『щに付け足し』Довесок к букве «Щ» (№ 16) 『我らロビンソン』 Мы робинзоны (№ 16) 『旅する個人農家』Турист-единоличник (№ ...

雑誌『チュダーク』と、イリフ&ペトロフ掲載作

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▷イリフ&ペトロフの作品を掲載誌別に時系列で整理 ▼雑誌『チュダーク(変人)』とは 1928年12月から1930年2月まで発行されていたユーモア風刺雑誌。週刊。 『チュダーク』1929年1月 № 3の表紙 イリフ、ペトロフは1928年11月以降、雑誌の創刊から『チュダーク(変人)』誌にかかわり、編集部の一員として働きながら、誌上に多くの作品を発表した。 新聞社『グドーク(汽笛)』が発行していた『スメーハチ(コメディアン)』の後継誌にあたる。 1930年、編集長のコリツォフの方針が「反ソビエト的」として当局に目をつけられたことがきっかけとなり、『クロコジール(鰐)』誌に合併する形で廃刊となった。 ▼雑誌『チュダーク』掲載のイリフ&ペトロフ作品 (末尾の№=雑誌の号数) 1928年 『コロコラムスク市の尋常ならざる話』 Необыкновенные истории из жизни города Колоколамска (№ 1) 1929年 『コロコラムスク市の尋常ならざる話』 Необыкновенные истории из жизни города Колоколамска (№ 2—10, 45) 『ニュルンベルクの歌の達人』Нюрнбергские мастера пения (№ 7)  *ペトロフ単独作 『ひび割れた石碑』 Разбитая скрижаль (№ 9)  *イリフ単独作 『谷間』 Долина (№ 11)  *ペトロフ単独作 『春のなりゆき』 Как делается весна (№ 12)  *イリフ単独作 『千一日、あるいは新シェヘラザード』1001 день, или Новая Шахерезада (№ 12—22) 『オデッサへの旅』 Путешествие в Одессу (№ 13)  *イリフ単独作 『メジュラブポム・フィルムの小鳥』Пташечка из Межрабпомфильма (№ 14) 『あなたの名字は?…』Ваша фамилия?... (№ 16) 『若きご婦人がた』 Молодые дамы (№ 21)  *イリフ単独作 『ダビデとゴリアテ』Давид и Голиаф (№ 23)  *ペト...