時事コラム『劇場の話』コメンタリー:戯曲『33の失神』とメイエルホリド
『劇場の話』(1935年)とは
メイエルホリド演出の戯曲『33の失神』にまつわる時事コラム。『プラウダ』に掲載された。(当サイトによる全訳)戯曲『33の失神』とは
チェーホフの書いたヴォードヴィル『創立記念祭』『熊』『結婚申込』をオムニバス形式にまとめた演劇作品で、チェーホフ生誕75周年を記念して、1935年3月25日に初演された。(なお、『劇場の話』で言及されているのは、初演から2週間後の4月8日のこと)『33の失神』を演出したメイエルホリドとは
モスクワ芸術座の俳優としてキャリアをスタートし、芸術座を退団してから演出へと転向して、つぎつぎと斬新な作品を発表しロシア内外の注目を集めた演出家。とくに革命前後の1910年代から1920年代にかけて、華々しく活躍した。
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| メイエルホリド |
…当時いかにメイエルホリドの名声が高かったか、その一端をわれわれは一時期メイエルホリドの私設秘書を務めたアレクサンドル・グラトコフの回想からうかがうことができる。それによると、 「メイエルホリドの名を知らぬ者はいなかった。劇場に一度も足を運んだことのない者にすらその名は知れ渡っていた」という。(『メイエルホリド・ベストセレクション』377ページ)
1930年代のメイエルホリドは、新しい演出を試すことよりも、これまで試みた手法を定着させ、完成度を高めることを目指していたようで、そのことによって目新しさが減じたのか、『33の失神』が上演された1935年ごろには、その名声は下降ぎみだった。
『33の失神』という作品自体も、その凝った(凝りすぎた)演出が観客に受けず、失敗作だと評されていた。
しかしそれは状況を俯瞰的にみたばあいの話であって、もう少し虫眼鏡的な視点でみれば、『劇場の話』にあるとおり、1935年当時もメイエルホリド劇場には人々がつめかけていたし、その中には海外からやってきた観客もいた。
イギリスの演出家ゴードン・クレイグは1935年にモスクワを訪れてメイエルホリドの舞台を観たひとりで(『33の失神』を観たかどうかはわかりません)、つぎのようなコメントを残している。
「できることなら私はもう一度ロシアに出かけて、メイエルホリドの仕事をつぶさに見てみたいと思う。…もしモスクワに行けたなら、文字通り悦んで数週間ものあいだ客席に自分を縛り付け、メイエルホリド劇場のリハーサルや芝居を見るつもりだ。そうしてはじめて、余計な二〇もの劇場に足を運ぶことから解放され、この演劇的天才を観察し理解でき、彼に学ぶことができるにちがいない」(『メイエルホリド・ベストセレクション』378ページ)
オムスク国立第5劇場の来日公演として、メイエルホリドの構成台本を使い、ユモフ・オレグが演出をした。
▷当時の上演案内:http://www.jrtf.jp/nowadays/nowadaysjapan/1595.html
▷広田豹氏による劇評:http://www.jrtf.jp/news/newsproject/352.html
参考文献
メイエルホリド『メイエルホリド・ベストセレクション』諫早勇一・岩田貴・浦雅春・大島幹雄・亀山郁夫・桑野隆・楯岡求美・淵上克司訳、作品社、2001年
『メイエルホリドの演劇と生涯 : 没後70年・複権55年 : 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館2010年企画展』早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2010年
伊藤愉「モスクワでの佐野碩 メイエルホリド劇場での経験」『佐野碩 人と仕事 1905-1966』菅孝行編、藤原書店、2015年、187〜209頁
安宅りさこ「メイエルホリドとチェーホフ 『三三の失神』をめぐって」『文化の透視法 : 20世紀ロシア文学・芸術論集』伊東一郎・宮澤淳一 編、南雲堂フェニックス、2008年、 312〜324頁
『メイエルホリドの演劇と生涯 : 没後70年・複権55年 : 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館2010年企画展』早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2010年
伊藤愉「モスクワでの佐野碩 メイエルホリド劇場での経験」『佐野碩 人と仕事 1905-1966』菅孝行編、藤原書店、2015年、187〜209頁
安宅りさこ「メイエルホリドとチェーホフ 『三三の失神』をめぐって」『文化の透視法 : 20世紀ロシア文学・芸術論集』伊東一郎・宮澤淳一 編、南雲堂フェニックス、2008年、 312〜324頁

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