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ナボコフの手紙(1937年4月15日)

イリフは1937年4月13日の夜、モスクワで死んだ。 その2日後、パリにいたナボコフは、当時離れて住んでいた妻のヴェーラに宛てて、つぎのように書いた。 「かわいそうにイリフが死んでしまった。なぜか、シャム双生児が離ればなれにさせられる光景が目に浮かんでしまう」 (1937.4.15日付、パリ、ヴェルサイユ大通り130、ヴェーラ・ナボコフ宛) ▷ドミトリ・ナボコフ/マシュー・J・ブルッコリ編『ナボコフ書簡集 1』江田考臣訳、2000年、みすず書房より引用・抜粋

ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 1/4

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1  あるとき、アメリカ旅行中にイリフと口論になった。ことが起こったのはニューメキシコ州にあるギャラップというちいさな町で、ちょうどその日の晩のことはわたしたちの本『一階建てのアメリカ』の〈ついていない日〉と題された章に書かれている。  ロッキー山脈を渡ったところで、わたしたちはひどく疲れていた。それなのにまだそこからタイプライターの前に座って、『プラウダ』のために時事コラムを書かなくてはいけなかった。  ホテルの殺風景な部屋に腰をおろして、蒸気機関車の操車時のホイッスルや鐘の音に憮然と耳をかたむけていた(アメリカの鉄道はしばしば街中を通っていて、蒸気機関車に鐘がとりつけられていることもよくあった)。わたしたちは黙りこくっていた。ごくまれに、どちらかが「それで?」と言うばかりだった。  タイプライターはカバーがはずされて、差し込み口には紙の束がセットされていたが、仕事が進む気配はなかった。  じつのところ、わたしたちの十年間の文学活動を通してみれば、こうしたことはよくあった ―― なによりむずかしかったのは、はじめの一行を書くことだ。それは耐えがたい時間だ。わたしたちは、いらいらしたり、腹をたてたり、お互いをせっついたり、かと思うとその後はまるまる一時間も黙りこんでみたり、しぼり出さないと一語もでてこない状態なのに、急に勢いづいておしゃべりを始めたりした。それも、自分たちの主題とはなんの関係もない ―― たとえば、国際連盟のことや、同盟作家のできの悪い作品のことなんかを。それからふたたび黙りこむ。わたしたちは、自分たちがろくでもない怠け者で、この世に存在することだけを許されているやつらだ、というような気がしてくる。自分たちがとほうもなく無能で、愚かに思えてくる。お互いを見るのもいやになる。  たいていは、そんな耐えがたい状態が限界に達したころ、ふいにはじめの一行が姿をあらわす ―― まったくありふれた、なんの変哲もない一行だ。それを口にしたわたしたちの片一方にはなんの確信もない。もう片方が、浮かない顔つきでそれをすこしばかり手直しする。ふたりでその一行を書き出してみる。するとそのとたんにすべての苦しみが終わりを告げる。わたしたちは経験で知っていた ―― 最初のフレーズさえあれば、仕事は動きだす。  ところがこのニューメキシコ州のギャラップという町では、どうにも仕事が...