ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 1/4
あるとき、アメリカ旅行中にイリフと口論になった。ことが起こったのはニューメキシコ州にあるギャラップというちいさな町で、ちょうどその日の晩のことはわたしたちの本『一階建てのアメリカ』の〈ついていない日〉と題された章に書かれている。
ロッキー山脈を渡ったところで、わたしたちはひどく疲れていた。それなのにまだそこからタイプライターの前に座って、『プラウダ』のために時事コラムを書かなくてはいけなかった。
ホテルの殺風景な部屋に腰をおろして、蒸気機関車の操車時のホイッスルや鐘の音に憮然と耳をかたむけていた(アメリカの鉄道はしばしば街中を通っていて、蒸気機関車に鐘がとりつけられていることもよくあった)。わたしたちは黙りこくっていた。ごくまれに、どちらかが「それで?」と言うばかりだった。
タイプライターはカバーがはずされて、差し込み口には紙の束がセットされていたが、仕事が進む気配はなかった。
じつのところ、わたしたちの十年間の文学活動を通してみれば、こうしたことはよくあった ―― なによりむずかしかったのは、はじめの一行を書くことだ。それは耐えがたい時間だ。わたしたちは、いらいらしたり、腹をたてたり、お互いをせっついたり、かと思うとその後はまるまる一時間も黙りこんでみたり、しぼり出さないと一語もでてこない状態なのに、急に勢いづいておしゃべりを始めたりした。それも、自分たちの主題とはなんの関係もない ―― たとえば、国際連盟のことや、同盟作家のできの悪い作品のことなんかを。それからふたたび黙りこむ。わたしたちは、自分たちがろくでもない怠け者で、この世に存在することだけを許されているやつらだ、というような気がしてくる。自分たちがとほうもなく無能で、愚かに思えてくる。お互いを見るのもいやになる。
たいていは、そんな耐えがたい状態が限界に達したころ、ふいにはじめの一行が姿をあらわす ―― まったくありふれた、なんの変哲もない一行だ。それを口にしたわたしたちの片一方にはなんの確信もない。もう片方が、浮かない顔つきでそれをすこしばかり手直しする。ふたりでその一行を書き出してみる。するとそのとたんにすべての苦しみが終わりを告げる。わたしたちは経験で知っていた ―― 最初のフレーズさえあれば、仕事は動きだす。
ところがこのニューメキシコ州のギャラップという町では、どうにも仕事が前にすすんでいかなかった。最初の一行が生まれてこないのだ。そしてわたしたちは口論になった。
だいたいのところ、わたしたちは口論したことなどほとんどなかった、するとしても純粋に文学上の ―― 会話体あるいは形容詞のつかいかたうんぬんといったようなことでだった。ところがそこで起こった言い争いときたらひどいもので、わたしたちは大声をだし、おそろしい声でののしり非難しあった。わたしたちはあまりにも神経がまいってしまって疲れきっていたのかもしれないし、あるいは、当時はまだ彼もわたしも知らなかったことではあるけれども、イリフの死の病が影響していたのかもしれない。ただ、わたしたちは長いあいだ口論した ―― 二時間あまりも。そしてとつぜんに、示しあわせたわけでもないのに、わたしたちは笑いだした。おかしなことだし、ばかげているし、信じがたいことだけれども、わたしたちは笑ったのだ。それは、いわゆる他人行儀の笑いといわれる、あとで神経薬をのまなくてはいけないような、ヒステリックで甲高い笑いではなくて、まったくごくふつうの、いわゆる健康的な笑いだった。あとでお互いにうちあけあったことだが、わたしたちは同時にまったく同じことを考えていた ―― 口論している場合ではない、こんなことはばかげている。どちらにしても、わたしたちが離ればなれになることはできないのだ。十年の作家生活をおくり、五冊の本を書いた作家がいなくなることなどありえない、作家の構成分子どうしが言い争いするなんて、共同の台所を使うふたりの主婦が、そこのコンロが原因で言い争っているようなものなのだから。
そういうわけで、ギャラップの夜はさんざんな始まりだったけれど、終わりにはほんとうに腹をわった話しあいをすることになった。
それは、これまで一度も曇ることのなかったわたしたちの長い友情の歴史において、もっとも胸襟をひらいた話しあいだった。わたしたちはそれぞれ、もっとも内に秘めていた考えや感情を相手にさらけだした。もうかなり前から、『十二の椅子』を書きおえたあたりから、自分たちがなんらかの単語やフレーズを同時に口にすることがあるのにわたしたちは気がついていた。たいていの場合、そうした単語はあきらめて、別の語を探すことになった。
「ある言葉がふたりの頭に同時にうかぶとしたら、」とイリフはよく言っていた。「それはつまり、三人、四人の頭にもうかぶということだ、それはつまり、その言葉があまりにもありふれているということだ。ジェーニャ〔訳注:エウゲーニイの愛称〕、横着をしないで、別の言葉をさがそう。難しいことだけど。だけど、芸術作品をものするのがかんたんなことだと言った人は、誰もいないからね」
あるときわたしたちは、とある編集部の依頼で面白おかしい自伝を書いたのだが、そこにはたくさんの真実が含まれている。ここに引用してみよう。
『二人で書くことはとても難しい。ゴングール兄弟はもっと楽だったと思わざるを得ない。なんといっても彼らは兄弟だった。わたしたちは親類でさえない。同い年ですらない。民族すらバラバラだ。ひとりはロシア人(謎めいたスラヴの魂)で、もうひとりはユダヤ人(謎めいたユダヤの魂)である。
そういうわけで、わたしたちの仕事は難しい。
なにより難しいのは、調和のとれた瞬間に達することで、そうしたとき、ようやく著者両名が書き物机にすわっている状態になる。
万事よし、と思われるかもしれない。テーブルクロスをよごさないように新聞紙が机にしきつめられ、インク瓶はふちまで満たされて、壁の向こうでは一本指で〈黒い瞳〉を弾くピアノの音、窓からはハトがのぞきこみ、さまざまな会議の通知は封を切られて投げ捨てられている。ひとことでいうならば、万事問題なし、座って書くべし。
ところがここからが始まりなのだ。
さあ、著者のひとりが創作意欲をみなぎらせて、人類に新しい芸術作品を、いわゆる大河的パノラマ作品を贈ろう、という思いに燃えているとき、もうひとりの方は(ああ、謎めいたスラヴの魂!)、ソファに寝そべっておみ足を上げ、海戦に関する物語を読んでいる。こうした状況で彼が言うには、自分は重い(おそらく死に至る)病いにかかっている。
別のパターンもある。
スラヴの魂がとつぜん病の床から身をおこして、これまでになく創作意欲の高まりを感じると言いだす。彼は夜どおし書くつもりでいる。電話も鳴るままにしておいたらいい、出なくていい、客がつめかけてドアがたわんだところで知るか、ボン、だ! 書くんだ、ただ書くんだ。熱心に、情熱的にやろう、主語の取扱いは慎重に、述語をだいじにして、人にはやさしく、己にはきびしく。
ところが、もうひとりの著者は(ああ、謎めいたユダヤの魂!)仕事をする気がない、できない。どうやら今、彼のところには霊感がおりてきていない。待たなくてはならない。すると結局、視野をひろげるため彼は極東に行きたいという。
その性急なやりかたを押しとどめているうちに、数日がすぎる。難しい、とても難しい。
ひとりは健康で、もうひとりが病んでいる。病人は回復して、健康なほうは劇場に出かける。健康なほうが劇場から戻ると、病人はどうやら友人を招いてちょっとした集まりを、ビュッフェつきのパーティーをやっている。だがそのレセプションもようやく終わって、仕事に取りかかれるときが来たとしよう。ところがここで健康なほうの歯が抜けて、彼が病人となる。それはひどい苦しみようで、抜けたのが歯でなく足であるかのようなありさまだ。しかしこれも、海戦に関する物語を読みおえる妨げにはならない。 まったくのところ、この状態でどうやってふたりで執筆しているのか、わからない。』
実際にそのとおりだ。ふたりで著述するのは、単純に足し算するとそう思われることもあるように二倍らくなことではなく、十倍たいへんなことだった。それは単純な力と力の足しあわせではなく、二つの力のたえまない闘争であり、力つきるまでの消耗戦であったが、またそれと同時に、実りの多い戦いでもあった。わたしたちは、あらゆる人生経験や、文学的な趣向や、手持ちのアイデアや観察したことのことごとくを、たがいにさらけだした。さらけだすときは戦いだった。戦いの中で、人生経験は疑いの目をむけられ、文学的趣向はときに鼻で笑われ、アイデアは愚にもつかないもの、観察は表層的なものとみなされた。わたしたちはお互いをたえずもっとも残忍な批評にさらした。それはユーモアにくるんであっただけに、いっそう侮辱的だった。わたしたちは書きもの机にすわっているとき、同情というものを忘れた。
時がたつにつれ、おなじ言葉を同時に口にしていると気づくことはますます増えていった。たいていそれはよく練られた適切な言葉で、ありふれてはおらず、縁遠いものだった。その言葉がふたりの人間の口からでたとしても、三人や四人の頭に浮かぶことはまずなさそうだった。それほどまでに、分かちがたい一つの文学スタイルと文学的趣向をわたしたちはつくりあげていた。それは完全な精神の融合だった。このことについて、わたしたちはニューメキシコ州のギャラップでの晩に語らったのだ。
お互いに打ち明けあったのは、個人の力量に確信をもてないという共通の感覚だった。たとえ一行であっても、独力で書くことができるものだろうか? 一年後、わたしたちは最後となった大部の作品である『一階建てのアメリカ』を書いた。それは、わたしたちが別々に著述をしたはじめての作品になった。二十章をイリフが書き、二十章をわたしが、そして七章を旧来のやりかたにのっとって共同で書いた。じぶんたちの恐れていたことは取り越し苦労だったと、確信がもてた。
しかしあのとき、ギャラップでは、わたしたちはあけっぴろげで繊細で、そしてとても不安になっていた。
どちらがこう言いだしたのかはおぼえていない。
「いつか、ふたり同時に不慮の事故で死ねたらいいのだけどね、航空事故か自動車事故かなにかで。そうすれば、じぶんたちの葬式にどちらかが出るなんて羽目にあわないですむんだが」
おそらくそう言ったのはイリフだったと思うが、そのとき考えていたことはふたりとも同じだったと、わたしは信じている。ほんとうに、じぶんたちの片方がタイプライターと差し向かいで取り残されるときがやってくるのだろうか? 部屋は静かでがらんとしていることだろう、それでも書かなくてはならないのだろう。
それから三週間たって、よく晴れた暑い一月の日中に、わたしたちはニューオーリンズにあるよく知られた墓地を歩きまわって、地上二、三階の高さがある風変わりな墓を見てまわっていた。イリフはとても青ざめて、もの憂げだった。しばしばひとりでその場をはなれて、白いレンガ造りの墓のさみしげな列がつくりだす小道に行き、しばらくすると戻ってはくるものの、よりいっそう悲しげで不安なようすをしていた。
夕べになり、ホテルの部屋で、イリフは顔をしかめてわたしにこう言った。
「ジェーニャ、ずいぶん前からきみと話がしたかった。とても具合がわるいんだ。もう十日ほども胸が痛む。痛みはたえまなく、昼も夜もつづいている。この痛みからは逃れられそうもない。それに今日、墓地を歩いていたときに咳をしたら、血が出たんだ。それから一日中出血がつづいている。見るかい?」
彼は咳をすると、わたしにハンカチを見せた。
それから一年と三ヶ月後の一九三七年四月十三日、午後十時三十五分、イリフは死んだ。
▷エウゲーニイ・ペトロフ『イリフの思い出より』1939年
▷Петров Е. Из воспоминаний об Ильфе. 1939
▷原文:https://ruslit.traumlibrary.net/book/ilfpetrov-ss05-05/ilfpetrov-ss05-05.html#s002002008
▷写真出典:https://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Ilf-Here-is-America.png
▷翻訳:Ayako Kagotani

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