イリヤ・エレンブルグによる回想『諷刺作家イリフ、ペトロフ』
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| イリヤ・エレンブルグ(1891-1967) |
諷刺作家イリフ・ペトロフ
I・A・イリフ、E・P・ペトロフの二人とは一九三三年モスクワで知合ったが、彼らと親密になったのはその一年後、彼らがパリにやってきた時だった〔エレンブルグ43歳、イリフ36歳、ペトロフ31歳〕。当時は、わが国の作家たちが海外旅行する場合、よく不測の椿事がおこったものであった。イタリアまでイリフとペトロフはソヴィエトの軍艦に便乗して辿り着き、また同じ軍艦で帰国するつもりでいたのが、予定を変更し『十二の椅子』の翻訳に対する印税をもらうことをあてこんで、ウィーンへ出かけていった。やっとのことで翻訳者からいくらかの金を取りたてると、彼らはパリに向った。
私の知合いに、ある泡沫的な映画会社で働いていたロシア系の婦人がおり、とても人の良い女性であった。私が、イリフとペトロフ以上に喜劇映画の立派なシナリオを書ける人物はいないといってその婦人を説き伏せたおかげで、二人は前金をもらうことが出来た。
私が早速、宝くじで当てた炭坑夫とパン屋の話〔実際に宝くじで五百万フランずつ当てた人たちで、当時のフランスの新聞をにぎわせていた〕を彼らに伝授してやったことはいうまでもない。二人は毎日のようにたずねるのだった−−「例の百万長者氏たちの件で、新聞に何かニュースは載ってませんか?」。そして話がシナリオのことに及ぶや、ペトロフはいった−−「書出しは出来てますとも。ある貧乏な男が五百万という大金を当てて…」
二人はホテルに閉じこもって精出して書き、晩方になると「クーポル」へやってきた。このバーで私たちはいろいろと喜劇的シチュエイションを考え出した。二人のシナリオ作者の他に、サーヴィチ、画家アリトマン、ポーランドの建築家セニョールと私が「ギャグ」探しに加わった。
喜劇映画は結局ものにならなかった。いかにイリフとペトロフが苦心したところで、シナリオはフランスの生活をよくとらえたものとはならなかったのである。しかし目的は達せられた。二人はパリ暮しをしたのだ。私の方も得るところがあった。すぐれた人物を二人も知ったのだから。
人々の記憶の中ではこの二つの名が一つにとけ合っている。存在していたのは「イリフペトロフ」だったのだ。ところが二人は互いに似ていなかった。イリヤ・アルノリドヴィチ(イリフ)ははにかみ屋のだんまり屋で、めったに冗談もいわず(もっとも、いうとなるとなかなか辛辣だったが)何百万という人々を笑わせてきたゴーゴリからゾシチェンコに至るまでの多くの作家たちと同様、陰気くさい男であった。彼はパリにいる間に、ずっと以前オデッサを去った画家の兄を探しあてたが、兄はいろいろ現代芸術の奇異な傾向をイリフに教えようとした。イリフの好むところは、精神の錯乱、混迷だったのである。一方、ペトロフが愛していたのは寛ぎだった。彼は気さくにどんな人とでも親しみ、会合に出れば自分の分とイリフの分と二人分しゃべり、何時間もぶっつづけて人を笑わせることが出来たばかりか、自分も一緒になって笑うような男だった。全く、稀にみる好人物であった。彼は人々の暮しがより楽しくなることを願い、人々の生活を楽にしたり飾ったりできるものなら何にでも目をとめるのだった。彼は、私がこれまでに会った人すべての中で一番の楽天家だったようだ。彼は物事を何でも実際以上によくみようとする傾向が大変強かったのである。ある名うての卑劣漢について彼はこういった−−「ところが、実際はそうでないんじゃないかな?人の口っていろんなことをいうものですからね…」。ヒトラー軍がわが国に攻撃をしかける半年ほど前、ペトロフはドイツへ派遣された。彼は帰国すると、こういって私たちを安心させようとしたものである−−「ドイツ人は戦争にすっかり嫌気がさしていますよ…」
否、イリフとペトロフはシャムの双生児ではなかった〔これはナボコフがイリフとペトロフをシャムの双生児になぞらえたことをふまえているかもしれない〕。にもかかわらず二人は一緒に書き、一緒に世界を旅し、仲睦まじく暮した。彼らはまるでお互いの至らぬ所を補いあっていたかのようだった。イリフの辛辣な諷刺はペトロフのユーモアに混ぜられて、よき薬味の役を果したのである。
イリフはむしろ黙り屋の方だったにもかかわらず、何かペトロフの影を薄くさせていた感があって、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ(ペトロフ)の真の姿が私にわかったのは大分後になってのこと−−戦争中のことであった。
ソビエトの諷刺作家たち−−ゾシチェンコ、コリツォフ、エルドマン等の運命を思い合わせると、イリフとペトロフはいつも運に恵まれていた。読者はもう第一作から彼らを愛するようになった。彼らには敵が少なかった。それに「たたかれる」こともめったになかった。彼らは外国を訪れ、アメリカ国内をまわり、二人しておこなった旅行について、愉快な、しかも知性にあふれる作品を書いた。正しく物を見る目を持っていたのだ。アメリカの話を書いたのは一九三六年のことであるが、これもまた好評だった。つまり、われわれが「個人崇拝」と名づけている一切のものは、諷刺文学に資するところ殆どなかったということである。
二人とも夭折した。イリフはアメリカで肺結核を患い、一九三七年、三十九歳で亡くなった。ペトロフは第一線に近い地帯で飛行機事故のため亡くなった。三十八歳であった。
イリフはもうアメリカ旅行の前から、「手持ち(レパートリー)がなくなってしまった」とか「実がしぼんでいく」とか再三いっていた。が、彼のノートを読むと、彼は作家としてこれから活躍しようというところだったことがわかる。彼はチェホンテ(チェーホフが、医学部に学ぶかたわらユーモア小説を書いていた頃のペンネーム)の段階で死んだわけだが、いつか彼は私に向ってこんなことをいった−−「『すぐり』とか『可愛い女』〔どちらもチェーホフの作品〕とか、ああいった短編が一つでも書けたらなあ、と思いますね…」。彼は諷刺作家であったばかりでなく、また詩人でもあったのだ。(彼は青春時代に詩を書いたが、ここではそのことをいっているのではない。彼が日記に書留めたメモが、簡潔で節度ある真の詩情に溢れている、ということである)
「さあ、どんな風に書いたものだろう?」と、最後にパリを訪れた際、イリフが私にいった。
「『大策士』なんて今はなくなっているでしょう。手前勝手な官僚とか、泥棒とか、卑劣漢なんかは新聞の時事評で扱えるわけですよ。名前と住所がわかれば、これは『畸型的現象』だってわけでとっちめられます。ところが短編小説を書くと、やれ普遍化しているの、やれ非典型的現象だの、やれ中傷だの、何んだのかんだのと、すぐさまわいわいがやがや騒ぎたてられてしまうのです」
いつだったかパリにいた頃、イリフとペトロフは、長編小説第三作は何について書くかで議論していた。イリフがふいに顔を赤くした。「一体全体、長編小説なんか書く必要がありますかね? ジェーニャ〔ペトロフの愛称〕、あなたはいつものように、フセヴォロド・イワーノフが過ちを犯しただの、シベリアには棕梠が生えているだの、そんなことを証拠立てようと思っているんでしょう」
それでもイリフは数多くのメモの中に、次のような空想小説の腹案を書残している。ヴォルガ河沿い地方のある都会に、どういうわけか知らないが、「古代ギリシャ風の、だがしかし、アメリカ技術の粋を集めた映画の町を建設することがきまった。ただちに調査団を二組−− 一組はアテネへ、他の一組はハリウッドへ−−派遣して、それから、いわば経験を組合わせ、建設にかかることが決定した」。ハリウッドへ出掛けた連中は、団員の一人が死んだため保険料をもらい、すっかり飲んだくれてしまった。「彼らは太平洋の水に膝までつかってうろつきまわり、彼らのてらてらする酔払い面を壮麗な落日が照らしていた。この酔払い連中を、アム映画社社長ミスター・アイバーソンから頼まれたモロカン教徒たちが次々とつかまえていった」。アテネでは派遣された団員たちが窮地に追い込まれた。ドラクマ(古代ギリシャの貨幣)がたちまち尽きてしまったのである。二組の調査団はパリの娼家「スフィンクス」で出くわし、悪行の報いを心配しいしい、倉皇として国に戻ってくる。ところが彼らのことなどみな忘れており、それに、もう一人として映画の町を作ろうと思っているものはいない…
この小説は書上がらなかった。イリフには自分が死にかかっていることがわかっていたのである。彼はこのノートにこう書留めている−−「身の毛もよだつような、物恐ろしい、氷のように冷い春の晩。まるっきり筆が運ばなかった」
エヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕はイリフの死後こう書いている−−「私の見るところでは、死期に近い頃の彼のメモは(それはいきなりタイプで、濃く、一行おきに打たれているが)すぐれた文学作品である。それは詩情に溢れ、物悲しい」
私もやはり、イリフのノートは注目すべき記録であるだけでなく、すばらしい散文だと思う。彼は低俗に対する憎悪と恐怖とを見事に表現しおおせているのだ。「勤め人たちの会話を私はどんなに愛していることか。文書発送係の女の子たちが交す、落着いた、もったいぶった会話。事務員たちがのんびりと交す考えのやりとり」「三番目のコースはさくらんぼうの砂糖煮だったわ」「僕たちは黙りこくってオスターフィエフの円柱の下に坐り、日向ぼっこをしていたんだ。静けさは二時間ほど続いた。突然道路に、ニッケルめっきのティー・ポットを手にして、休暇を過しに来ている一人の女が現れた。ティー・ポットは日の光を受けて目もまばゆいばかりに輝いていたよ。誰も彼も異常に活気づいて、その女にたずねるんだ。それはどこでお買いになったんですか? おいくらなんです?」「金文字を打込んだ青い鉛筆の名は『筆記・計算』だった。いやはや、何ともうんざりだ!」「新しい商店が店開きした。貧血症患者向きのソーセージ、ノイローゼ患者向きのパイ」「おそれを知らぬ白痴どもの国」「それは、小柄な要人連中の傲慢な子供たちだった」「『神はありません!』−−『それでは、チーズはあるかね?』−−教師は憂鬱そうにたずねた」。彼は自分のよく知っている仲間たちについてこう書いている−−「作曲家たちは何もしないで、ただ五線紙に密告を書き合っているだけだった」
「どの雑誌を見てもジャーロフは罵倒されている。今までは十年間も賞賛されたのに、これから先は十年間も罵倒されるだろう。以前賞賛の的になっていた点が、今度は罵倒の的となるだろう。おそれを知らぬ白痴どもの間にいると、気が重く、うんざりする」
イリフのノートには、何かチェーホフのノートをしのばせるものがある。だが『可愛い女』とか『すぐり』のような作品は、イリフはとうとう書かなかった。暇がなくて書けなかったのか、それとも、控え目な性格のために書く決心がつかなかったのかもしれない。
エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕にとっては、イリフの死は大きな打撃であった。最大の親友を亡くしたことが悲しかったばかりではない。イリフペトロフと呼ばれていた作家は死んでしまったことが、彼にはわかっていたからである。一九四〇年、久方ぶりで会った時、ペトロフは、彼にしては珍しく滅入った様子でいった−−「私は何もかも最初からやり始めなければなりません…」
彼はどんな作品を書いたことだろう? ちょっと察しがつかない。彼は偉大な才能と独特な精神的風貌とを持っていた。が、彼は自分の力量を示すことができなかった。戦争が始ったのだ。
彼は縁の下の力持ち的仕事を遂行していた。海外での情報宣伝活動に従事していたソヴィエト情報局の総裁はS・A・ロゾフスキイであった。
わが国の情勢は多難で、多くの同盟国はわが国を見限ろうとしていた。アメリカ国民に真実を語る必要があった。ロゾフスキイは、わが国の作家やジャーナリスト中には、アメリカ人の心理を理解し、彼らのために引用や紋切型の文句を使わずに物の書ける者が少ないことを知っていた。こうして、ペトロフは大通信社ナナ(ヘミングウェイをスペインに派遣した通信社)の従軍記者となった。エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕は、勇敢に、辛抱強く、この仕事を遂行していった。彼はまた、『イズベスチヤ』と、『赤い星』にも記事を書送っていた。
私たちはホテル「モスクワ」に住んでいた。戦時下での最初の冬だった。二月五日、灯が消え、エレベーターが止った。ちょうどその夜、エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕は爆風による打撲傷を負ってスヒーニチの戦闘から戻ってきた。彼は同行の人たちに自分の体の具合をかくして言わなかったが、やっと階段を十階まで這い上がるや倒れてしまった。私は二日目に彼を訪れた。彼は物を言うのも大儀そうだった。医者が呼ばれた。だが、彼は寝たまま戦闘の記事を書いていた。
一九四二年六月、形勢すこぶる憂鬱な頃、私たちは同じホテルに住むK・A・ウマンスキイの部屋にいた。I・S・イサコフ海軍大将がやってきた。ペトロフは、包囲下にあるセヴァストーポリへ何とかして自分をやってくれと頼みはじめた。イワン・ステパーノヴィチ〔イサコフ海軍大将〕は相手にそのような無謀な計画を思い止らせようとした。ペトロフはきかなかった。数日後、彼はセヴァストーポリに潜入した。そこで彼は敵の猛爆に会った。彼は駆逐艦「タシケント」に乗って帰ってきたが、途中ドイツ軍の爆弾が軍艦に命中した。多くの犠牲者が出た。ペトロフはノヴォロシイスクまで辿り着いた。そこで彼は自動車に乗った。事故がおこったが、またしてもエヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕は無事だった。彼はセヴァストーポリ戦記を書きはじめ、早くモスクワに着きたいと急いでいた。飛行機は低空を飛び(当時戦線に近い地帯ではどの飛行機もそうだった)小山の山頂に衝突した。死は長いことペトロフを追いまわしたあげく、遂に彼に追いついたのだった。
(その後まもなくI・S・イサコフは重傷を負い、それからK・A・ウマンスキイが、メキシコで飛行機事故にあって亡くなった)
文壇ではイリフとペトロフは傑出した存在であった。彼らは立派な人間で、おごらず、文豪ぶらず、手段かまわず栄達しようなどとしなかった。彼らはどんな仕事とも、最も肉体を酷使する仕事とさえ取組んだし、新聞の時事評にはずいぶん精力を注いだ。こうした面での彼らの功績は輝かしい。彼らは、無関心、粗野、傲慢を打負かしたかったのだ。立派な人たち−−彼らを呼ぶにこれ以上ふさわしい言葉はみつからないと思う。そして、立派な作家たち−−大変苦しい時期に、人々は彼らの作品を読んで顔をほころばせたのである。愛すべきいかさま師オスタップ・ベンデルは、幾百万の読者を楽しませてきたし、また現在でも楽しませ続けているのだ。更に私は、この仕事仲間たちの友情に甘い気持ちになっているのではないことを前置きして、イリヤ・アルノリドヴィチ〔イリフ〕とエヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕についてもう一言つけ加えておこう−−よき友であった、と。

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