イリフ&ペトロフの転換点、1932年4月に起きたこと
▷イリフとペトロフの作品を掲載媒体別に時系列で並べると、明らかに1932年4月の前後で活躍の場が変わっていることがわかる。
代表作の『十二の椅子』(1928年)と『黄金の仔牛』(1931年)は、文学的キャリアの前半に書かれているが、文学的な転換点はそれより後の1932年4月にある。それ以降、権威のある媒体での仕事が増えているからだ。
掲載媒体に注目してまとめると、こうなる。
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『十二の椅子』を発表(1928年)
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ユーモア雑誌〈チュダーク〉に作品を発表しはじめる
グラビア雑誌〈アガニョーク〉に作品を発表しはじめる
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『黄金の仔牛』を発表(1931年)
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〈ソビエト芸術〉に作品を発表しはじめる
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1932年4月:転換点
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ユーモア雑誌〈クロコジール〉に作品を発表しはじめる *プラウダが発行元
新聞〈文学新聞〉に作品を発表しはじめる *ソビエト作家協会の機関新聞
新聞〈プラウダ〉に作品を発表しはじめる *プラウダが発行元
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プラウダの特派員としてアメリカを旅行(1935年〜1936年)
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アメリカ旅行の写真と紀行文を〈アガニョーク〉〈ズナーミャ〉に発表(1936年)*ズナーミャは当時ソビエト作家協会の機関紙
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1932年4月以降、如実に、権威ある媒体(共産党紙プラウダや、ソビエト作家協会が発行する媒体)に寄稿するようになっている。
では、1932年4月にいったい何が起きたのかというと、それは当時の文壇を牛耳っていたラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)の解散。ラップは当時存在した文学団体のひとつにすぎないが、その一方で、党の文芸政策に多大な影響力を持つ、文壇の支配的団体だったようだ。当時、他派の作家に対し厳しく批判するなど攻撃的にふるまっていたらしい。イリフとペトロフに対しては、彼らは黙殺するという態度をとっていた。歴史学者ルリエの『恐れを知らぬ馬鹿者どもの国で』という本には、「ラップが解散するまで、イリフとペトロフには(文学的な)生存権が与えられていなかった」という趣旨のことが書かれている。
ラップという重荷が取り払われた1932年4月を境として、イリフとペトロフは活躍の場を広げていくわけだが、もうひとつ興味ぶかいのは、「ラップによって文壇から黙殺されていたキャリアの前半期にも、彼らはコンスタントに作品を発表していた」という事実。ラップの圧力に負けず、彼らの文学活動を認め、支援した人がいたことになる。
それは誰か。
ひとりめは、『十二の椅子』と『黄金の仔牛』の掲載を許可した雑誌編集長、ワシーリイ・レギーニン。まだ評価の定まらない若手作家の作品を載せるというレギーニンの決断から、イリフとペトロフの文学活動は始まった。
もうひとりは、〈グドーク〉〈チュダーク〉〈アガニョーク〉など、複数の雑誌の編集長をつとめていたミハイル・コリツォフ。彼は、オデッサからモスクワへ出てきたふたりを〈グドーク〉の編集部に雇って経験を積ませたあと、自分の持っている雑誌に彼らの作品を次々載せていった。
彼らふたりの他にもきっと支援者はいただろうが、レギーニンとコリツォフによるサポートは、時期的にも内容的にも、その中でとびぬけて貢献度が大きかったのではないだろうか。
ちなみに、レギーニンとコリツォフは、イリフとペトロフの故郷オデッサでつながっている。レギーニンはオデッサの新聞局で働いたことがあり、コリツォフはオデッサ出身だった。
ミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』矢野卓訳、2018年、白水社文庫クセジュ
Яков Соломонович Лурье. В краю непуганых идиотов. Париж. 1983 ; СПб. 2005
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Michail_Kolcov_-_NKVD.jpg
代表作の『十二の椅子』(1928年)と『黄金の仔牛』(1931年)は、文学的キャリアの前半に書かれているが、文学的な転換点はそれより後の1932年4月にある。それ以降、権威のある媒体での仕事が増えているからだ。
掲載媒体に注目してまとめると、こうなる。
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『十二の椅子』を発表(1928年)
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ユーモア雑誌〈チュダーク〉に作品を発表しはじめる
グラビア雑誌〈アガニョーク〉に作品を発表しはじめる
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『黄金の仔牛』を発表(1931年)
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〈ソビエト芸術〉に作品を発表しはじめる
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1932年4月:転換点
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ユーモア雑誌〈クロコジール〉に作品を発表しはじめる *プラウダが発行元
新聞〈文学新聞〉に作品を発表しはじめる *ソビエト作家協会の機関新聞
新聞〈プラウダ〉に作品を発表しはじめる *プラウダが発行元
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プラウダの特派員としてアメリカを旅行(1935年〜1936年)
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アメリカ旅行の写真と紀行文を〈アガニョーク〉〈ズナーミャ〉に発表(1936年)*ズナーミャは当時ソビエト作家協会の機関紙
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1932年4月以降、如実に、権威ある媒体(共産党紙プラウダや、ソビエト作家協会が発行する媒体)に寄稿するようになっている。
では、1932年4月にいったい何が起きたのかというと、それは当時の文壇を牛耳っていたラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)の解散。ラップは当時存在した文学団体のひとつにすぎないが、その一方で、党の文芸政策に多大な影響力を持つ、文壇の支配的団体だったようだ。当時、他派の作家に対し厳しく批判するなど攻撃的にふるまっていたらしい。イリフとペトロフに対しては、彼らは黙殺するという態度をとっていた。歴史学者ルリエの『恐れを知らぬ馬鹿者どもの国で』という本には、「ラップが解散するまで、イリフとペトロフには(文学的な)生存権が与えられていなかった」という趣旨のことが書かれている。
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ラップという重荷が取り払われた1932年4月を境として、イリフとペトロフは活躍の場を広げていくわけだが、もうひとつ興味ぶかいのは、「ラップによって文壇から黙殺されていたキャリアの前半期にも、彼らはコンスタントに作品を発表していた」という事実。ラップの圧力に負けず、彼らの文学活動を認め、支援した人がいたことになる。
それは誰か。
ひとりめは、『十二の椅子』と『黄金の仔牛』の掲載を許可した雑誌編集長、ワシーリイ・レギーニン。まだ評価の定まらない若手作家の作品を載せるというレギーニンの決断から、イリフとペトロフの文学活動は始まった。
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| レギーニン(1883-1952) |
もうひとりは、〈グドーク〉〈チュダーク〉〈アガニョーク〉など、複数の雑誌の編集長をつとめていたミハイル・コリツォフ。彼は、オデッサからモスクワへ出てきたふたりを〈グドーク〉の編集部に雇って経験を積ませたあと、自分の持っている雑誌に彼らの作品を次々載せていった。
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| コリツォフ(1898-1940) |
彼らふたりの他にもきっと支援者はいただろうが、レギーニンとコリツォフによるサポートは、時期的にも内容的にも、その中でとびぬけて貢献度が大きかったのではないだろうか。
ちなみに、レギーニンとコリツォフは、イリフとペトロフの故郷オデッサでつながっている。レギーニンはオデッサの新聞局で働いたことがあり、コリツォフはオデッサ出身だった。
▼参考文献
Ильф И., Петров Е. Собрание сочинений в 5 томах. т.3. М. 1961. С.515-521ミシェル・オクチュリエ『社会主義リアリズム』矢野卓訳、2018年、白水社文庫クセジュ
Яков Соломонович Лурье. В краю непуганых идиотов. Париж. 1983 ; СПб. 2005
▼画像出典
Sputnikimages.comhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Michail_Kolcov_-_NKVD.jpg


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