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短編『戸籍登録員の過去』(1929年)訳 3/5

▷イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』の外伝的作品 ▷『十二の椅子』の主人公ヴォロビヤニノフの過去 ▷本文中の緑字は訳注あり(クリックで コメンタリーページ へ遷移)  _______ (はじめから読む) (2から読む)  スタルゴロドの慈善バザーは、その豪華さと、上流社会のご婦人がたが競って発揮する創意工夫とで抜きんでていた。そのバザーは、モスクワの旅籠屋のような見ためや、カフカスの村に似せたかっこうにつくられ、そこではコルセットをつけたチェルケス娘たちが、孤児院の子らのためといって、アイのシャンパンを聞いたこともないような前代未聞の高値で売っていた。  イポリート・マトヴェーヴィチは、そうしたバザーで〈ホンモノのカフカス食堂、ふつうのカフカスの娯楽〉という看板の下に立っていたところ、新任地区検事の妻であるエレーナ・スタニスラヴォヴナ・ボウルと知りあった。検事は年寄りであったが、妻のほうは、裁判所書記官が次のように請け合った人だった。   …青春が心さわがせ、   若さが喜びいさむ。   口づけに呼びまねく、   その全身はかくも軽ろし。  この書記官は詩才に欠けていた。  〈口づけに呼びまねく〉エレーナ・スタニスラヴォヴナは、頭に黒いビロードでできたお皿型の帽子をのせ、そこにフランス国旗の色をした絹製のバラかざりをあしらっていたが、それは若いチェルケスの乙女の装いを完全に表現するはずのものであった。〈軽ろき〉肩には、ボール紙に金の色紙を貼った水差しを乗せており、水差しからはシャンパンボトルの細い首がつきでていた。 「シャンパン一杯モラウ!」と、イポリート・マトヴェーヴィチはほんものの山の民のふりをして言った。  検事の妻はやわらかくほほえむと肩から水差しを下ろした。  イポリート・マトヴェーヴィチは、息をつめて、むき出しになった彼女のろう細工のような手が、たどたどしくボトルを開けるのを見つめていた。彼は、なんの味も感じられないままに、シャンパンを飲み干した。エレーナ・スタニスラヴォヴナのむきだしの手が、すっかり頭をかき乱してしまった。ベストのポケットから百ルーブル紙幣を取り出すと、張子でつくった褐色の岩山の端にのせ、大きく鼻で息をつくとその場を離れた。検事の妻はよりいっそうやわらかい笑みを浮かべ、紙幣をじぶんのほうへ引き寄せると歌うような声で言った。...

短編『戸籍登録員の過去』(1929年)訳 2/5

▷イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』の外伝的作品 ▷『十二の椅子』の主人公ヴォロビヤニノフの過去 ▷本文中の緑字は訳注あり(クリックで コメンタリーページ へ遷移)    _______ (1から読む)  イポリート・マトヴェーヴィチ・ヴォロビヤニノフは、一八七五年、スタルゴロド郡にある父マトヴェイ・アレクサンドロヴィチの領地で生まれた。父は熱烈なハト愛好家であった。息子が成長していき、子どものかかる病気になったり、人生に対する最初のものの見かたを育んだりしているあいだに、マトヴェイ・アレクサンドロヴィチは、長い竹の棒をつかってハトを飛ばしたり、夜にはガウンにくるまって、愛すべき鳥の変種や習性についての著作を書いたりしていた。屋敷の建物という建物の屋根は、砕けやすいハトのフンにおおわれていた。マトヴェイ・アレクサンドロヴィチの愛したハト、フレデリックは、パートナーのマニカと一緒に、特別にしつらえられた鳩舎に住んでいた。  九歳になる年に、少年はスタルゴロドの貴族専用の ギムナジウム の予科に入れられ、そこでは美しいものや快いもの、例えば、ペンケースや、きしんだ音を立てる革製の香りを放つランドセルや、写生絵や、ギムナジウムのニス塗りの階段を滑りおりる楽しさなどを知りもしたが、それ以外に、評点一や二、二プラス、三ダブルマイナスも知ることになった。  イポリートは、他の少年たちに比べて自分がすぐれていることに、入学の算術試験のときにはもう気がついていた。左のポケットからりんごを三つとりだし、右から九つとりだし、それらを足してから三で割るといくつになるかという問いに対してイポリートは何も答えなかった。解くことができなかったからである。試験官はヴォロビヤニノフ家のイポリート少年に二をつけようとしたが、そこで試験机に座っていた神父が、ため息とともに「この子はマトヴェイ・アレクサンドロヴィチの息子さんです。とても活発な少年ですよ」と入れ知恵をした。試験官はヴォロビヤニノフ家のイポリート少年に三をつけ、この活発な少年は入学を許可された。  スタルゴロドには二つのギムナジウムがあった。貴族用のと市立のとである。貴族学校の生徒は、市立学校の出身者に敵対心をもっていた。彼らを〈えんぴつ〉と呼んで、自分たちのかぶっている赤い縁のついた学帽を自慢にしていた。そのせいで、...

短編『戸籍登録員の過去』(1929年)コメンタリー

▷項目は随時追加(最終更新:2022.8.16) ▷本編は こちら 『戸籍登録員の過去』 1929年、雑誌『30日』第10号掲載。『十二の椅子』の連載終了後、独立した短編として発表された。掲載時、編集部によって「『十二の椅子』の未発表の章である」という注がほどこされていた。著者らはこの章を『十二の椅子』の刊行物に含めず、生前に再掲載されることもなかった。 2016年に刊行された『著者版 十二の椅子 ※ 』には、本編の5章として(オスタップ・ベンデルの登場の直前に)この短編が組み込まれている。( ※ イリヤ・イリフの娘であるアレクサンドリア・イリフが編集し、原稿、タイプ原稿、雑誌の発表分なども含めた版) マースレニツァの木曜日 マースレニツァは春を迎える民間儀礼的な行事で、一週間にわたってつづく。宗教的な精進に入る直前の一週間にあたるため、精進のあいだにできないことをやりだめておく(食いだめ、遊びだめ)期間でもあった。そうしたお祭り騒ぎ的雰囲気が頂点に達するのがマースレニッツァの木曜日で、別名「どんちゃん騒ぎの日(Разгул, Разгуляй)」「分かれ目の日(Перелом)」と呼ばれていた。 小説の冒頭のできごとは、こうした日に起きたということを念頭におく必要がある。 貴族団長 貴族会(дворянское собрание)を主宰する人であり、貴族としての義務をおこたっている会員がいないかを監督する立場の人。3年にいちど開かれる貴族会の集まりで、選挙によって選ばれる。郡の貴族団長のほかに、県の貴族団長もおり、県の貴族団長はかずかずの公共事業や地方自治体をも掌握する力をもっていた。トルストイ『アンナ・カレーニナ』には、貴族団長のこみいった選挙のようすがくわしく描かれている(第6編26-31)。 デンマークの王子 シェークスピアの『ハムレット』を連想させるペンネーム。同じペンネームの人物が『十二の椅子』本編13章「息をはずませてください、興奮してるんだから!」に登場するが、同一人物かどうかは不明。 王子の機転(「どもる」と「口にする」) 特別市長のことば「こういうことはもうこれ以上口にしないことをおすすめします」には、「どもる」と同じ語(заикаться)が、「なにかについてそれとなく言う」という意味で使われている。「ヴォロビヤニノフ氏の所業について記事でほの...

短編『戸籍登録員の過去』(1929年)訳 1/5

▷イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』の外伝的作品 ▷『十二の椅子』の主人公ヴォロビヤニノフの過去 ▷本文中の緑字は訳注あり(クリックで コメンタリーページ へ遷移)  _______  一九一三年のマースレニツァの週に、スタルゴロドの社交界でその最先端をいく人々をざわつかせる事件が起こった。   木曜の晩 、ショーレストラン〈サルヴェ〉の華やかに飾りつけられたホールでは、つぎのような大規模プログラムが催されていた。 世界的に有名な曲芸師一座 十人のアラブ人! 二十世紀最大の鬼才 スタンス 複雑怪奇!空前絶後!! スタンスは謎の男! おどろくべきスペインの軽業師 イナス! ブレジーナ    パリの劇場フォリー・ベルジェールの歌姫!    ドラフィール姉妹とその他の出しもの  ドラフィール姉妹が(三人だった)、ヴェルサイユの庭園を背景に描いた極小の舞台を動きまわり、ヴォルガなまりでこう歌っていた。    あなたの目の前を小鳥のように    そこここ軽く飛びまわるの    群衆はわたしたちに拍手かっさい    貴族のおえらがたもみんな大喜びよ  この一節を歌いおえると、三人姉妹はぶるっと体をふるわせ、手をとりあって、しだいに強まるピアノの伴奏にあわせ、あらんかぎりの声でリフレインを歌いはじめた。    わたしたちは飛びまわる    涙なんか知らぬげに    わたしたちのこと、みんなが知っている    賢い人も、おばかさんも  ドラフィール・トリオの懸命な踊りと魅惑的なほほえみは、スタルゴロド社会の最先端をいくグループにはなんの印象も与えなかった。そのグループとは、ショーレストランの中では、市議会議員のチャルーシニコフとそのいとこの女性、クリーム色のドレスを着たいとこをふたり連れてほろ酔い気分で座っている第一級商人のアンゲロフ、役所づき建築士、町医者、三人の地主、それよりは劣るがそれなりの社会的地位をもち、いとこの女性を連れていたり、連れていなかったりする多くの人々、といった面々で構成されていたが、彼らはドラフィール・トリオに陰気な拍手を送りつつ、「家族のハレの夕食、メゾン・マムのシャンパン(グリーンリボン)つき、一人につき二ルーブル」の喜びにふたたび身をゆだねた。  テーブルの上の白い金属でできた...

オスタップ・ベンデルの復活

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▷イリフとペトロフの代表作『十二の椅子』『黄金の仔牛』に続編の予定はあったのか? ▷主人公オスタップ・ベンデルの復活は構想されていたのか? ▷そのヒントとなる1933年と1936年(あるいは1937年)の記事・メモを掲載 ▼1933年8月24日、コムソモーリスカヤ・プラウダ さかのぼること1933年6月29日、白海とバルト海を結ぶ運河が完成した。 1931年9月からはじまったこの運河の建設には、のべ30万人以上の受刑者が投入され、数万とも十数万ともいわれる死者を出して完成した。 もちろん、スターリンをはじめとするソビエトの指導部は、こうした事実に目をつぶり、運河建設を国家的勝利、受刑者の再教育の成果と喧伝した。 そして、当時の作家たちがその宣伝にひと役買っていた。 1933年8月17日、ゴーリキー、シクロフスキー、カターエフ、ゾーシチェンコ、A・トルストイら作家180人が、運河を視察。イリフとペトロフもその中に含まれていた。 そして1週間後の8月24日付のコムソモーリスカヤ・プラヴダに、作家たちの運河訪問記事が出た。運河建設を喜ぶ詩や散文が掲載されるなかに、イリフとペトロフの書いたつぎの文章があった。 文章は〈第三の小説〉と題され、『十二の椅子』と『黄金の仔牛』の続編の要請が、33年当時(あるいはそれ以前)にはあったことが、その内容からうかがえる。 _______ イリフ&ペトロフ 第三の小説  我々はよく聞かれたものだ。オスタップ・ベンデルをどうするつもりかと。我々の書いた『十二の椅子』と『黄金の仔牛』に出てくるこの主人公は、ふたつの小説の中で、模範的にふるまっていたとは、とてもいえない。  答えるのはとても難しかった。  我々自身にもわからなかったのだ。この主人公に定住生活をさせる第三の小説を書かねばならない事態はすでに生じていたが、どう書いていいのか、まだわかっていなかった。  彼が、半ばはぐれ者のままでいるのか、もしくは、社会の有用なメンバーになるのか。なったとして、読者はそんな急激な変革を、信じてくれるのかどうか?  そうやって我々がこの問題を熟考しているあいだに、どうやら小説は書き上げられ、世にでていたようだ。  それは白海運河で生まれていた!  我々はそこで、自分たちの主人公と、彼よりもはるかに危険な過去をもつ大勢の人間を見た。  彼らは、全部でたった...

ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 4/4

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(最初から読む) (3に戻る) 4  わたしたちは十年いっしょに仕事をした。これはとても長い期間だ。文学では一生分にあたる。わたしはこの十年のことを小説に書きたいと思う。イリフについて、彼の生と死について、わたしたちがいっしょに創作したこと、旅をしたこと、人と会ったことについて、そしてこの十年でわたしたちの国が変わってしまったこと、それとともにわたしたちも変わってしまったということについて。おそらく、時間があればこうした本を書くこともできるだろう。だがさしあたっては、イリフの死後にわたしたちのもとに残された彼の手帳について、いくつか書いておきたいと思う。  「とにかく書きとめておくようにしたまえ」と彼はわたしによく言っていた。「すべては過ぎ去ってしまうし、すべては忘れさられる。書きとめたくない気持ちはわかるよ。やりたいことは見物することであって、書きとめることではないからね。だけれども、そういう時は自分をそうし向けないと」  自分をそうし向けることに彼はひじょうによく失敗していて、そういう時の手帳は、何ヶ月もポケットから出されなかったりした。それから他のジャケットを着たりするものだから、いざ何かを書きとめようというとき、手帳がないのであった。 「まずい、まずい」とイリフは言っていた。「とにかく書きとめるようにしなくては」  しばらく時がたつと、イリフのもとに新しいメモ帳がやってくる。彼は満足げにそれを眺め、厚紙や防水布でできた表紙をおごそかに手のひらでたたき、脇ポケットにしまって、今からは毎日メモ帳を持ち歩こう、夜中にも起きて何か書こうという気がまえを見せるのだ。しばらくの間、手帳は実際にかなりひんぱんに取り出されたが、それから冷却期間がやってきて、手帳は古いジャケットに忘れさられるようになり、ついには、おごそかに新しい手帳が家に持ち帰られることになるのだった。  ある日、彼のしつこい求めに応じて、どこかの編集部か出版社がイリフに会計用の巨大な手帳をプレゼントした。それは厚手のつやつやした紙で、赤と青の罫線が引かれていた。この手帳を彼はとても気にいった。何度も何度もそれを開いては閉じ、じっくりと会計用の罫線を眺めてはこう言っていた。 「ここにはあらゆることを書きとめなくちゃ。人生の本だ。ここの右側には、こっけいな姓だとか、ちょっとしたディティールだとかを書こう。左側...

カターエフと『十二の椅子』

イリフとペトロフがはじめて共作した長編小説『十二の椅子』は、作家としてさきに世にでて活躍していたワレンチン・カターエフ(ペトロフの兄)がアイデアを提供した。 『十二の椅子』の献辞がカターエフに捧げられているのはそのため。 カターエフがアイデアを出したいきさつは、ペトロフによる回想記『イリフの思い出より』(1939)の第3章でくわしく語られている。 (前略)「おれがテーマを出すから、きみらが小説を書いて、それをあとでおれが直すことにしよう。二度ばかりきみらの原稿に巨匠が手を入れれば、それでできあがりさ。デュマ・ペールのようにね。どうだい? やりたい奴はいるか? ただ覚えといてくれ、おれはきみたちをこき使うつもりだ」  わたしたちはそれからまだしばらく、老サバーキン〔注:カターエフのこと〕が大デュマになり、わたしたち〔注:イリフとペトロフのこと〕がそのゴーストライターをやるという話題でふざけあった。その後、わたしたちはまじめに話しだした。 「すばらしいアイデアがあるのさ」とカターエフは言った。「椅子だ。いいか、椅子のうちの一つに、金が隠されている。それを見つけださなくちゃならない。冒険小説として申しぶんないだろう? まだちょっとしたテーマもあるが… どうだ? 同意しろよ。まじめな話だよ。一つの小説をイーリャ〔イリヤ(=イリフ)の愛称〕が書いたらいい、もう一つはジェーニャ〔エウゲーニイ(=ペトロフ)の愛称〕が書くんだ」(後略) (全訳はこちら) 自分のアイデアを惜しげもなく人に提供することは、カターエフにとって日常茶飯だったらしく、『創作についての考え』(1961)と題したエッセイの中で、カターエフはこう語っている。 私の中には絶えず、かつても今も、まだクリアな形になっていない題材がたくさんうごめいている。おそらく、それらがクリアになることはない。私はそうした題材を喜んで他の人にやってしまう、かつてイリフとペトロフに『十二の椅子』のテーマをやったように。私にはわかっているのだ、テーマはいい、だが自分のではないと。自分でテーマを採用するときは、何かによって内から動かされて、無理な力がわずかでも働くことなく、書けると感じたときに限られる。 Во мне вечно, и раньше и сейчас, бродит масса сюжетов, которые еще н...

ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 3/4

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(最初から読む) (2に戻る) 3  いったいどんなふうにして、イリフとわたしはいっしょに書くようになったのか? それを偶然と呼ぶと、あまりにも単純化していることになる。イリフはもういないので、共同執筆をはじめたときに彼が何を考えていたか、わたしには知るよしもない。わたしのほうは、彼との関係性を通じて、イリフにつよい尊敬の念をいだくようになっていたし、ときには感激することすらあった。わたしは彼より五歳若かったし、彼が非常にはにかみ屋で、寡作で、書いたものを見せるようなことがなかったにもかかわらず、わたしのほうでは、彼が自分の師匠だと認めるつもりでいた。彼の文学趣味は当時のわたしには非の打ちどころがなく思われたし、その大胆なものの考えかたがわたしを有頂天にさせた。ただし、わたしたちにはもう一人師匠がいた、いわば職業上の師匠だ。それはわたしの兄、ワレンチン・カターエフだった。彼も当時『グドーク(汽笛)』で時事風刺コラムニストとして働いていて、老サバーキンというペンネームをつかっていた。この仕事で彼はよく第四面の部屋にやってきていた。ある日、彼はそこへこう言いながら入ってきた。 「おれはソビエトの大デュマになるぞ」  この大それた宣言は、この部署の中ではたいした熱狂を呼びおこさなかった。それにこんな宣言をしながら第四面の部屋に入ってくる人はいなかったのだ。 「いったいどうした、ワリューン 〔ワレンチンの愛称〕 、どうして突然デュマ・ペールになりたくなった?」とイリフが聞いた。 「なぜって、イリューシャ 〔イリヤ(=イリフ)の愛称〕 、もう長いことソビエトの小説には名作の穴が空いてるからさ」と老サバーキンは答えた。「おれが大デュマになるから、きみたちがおれのゴーストライターをやるんだね。おれがテーマを出すから、きみらが小説を書いて、それをあとでおれが直すことにしよう。二度ばかりきみらの原稿に巨匠が手を入れれば、それでできあがりさ。デュマ・ペールのようにね。どうだい? やりたい奴はいるか? ただ覚えといてくれ、おれはきみたちをこき使うつもりだ」  わたしたちはそれからまだしばらく、老サバーキンが大デュマになり、わたしたちがそのゴーストライターをやるという話題でふざけあった。その後、わたしたちはまじめに話しだした。 「すばらしいアイデアがあるのさ」とカターエフは言った。「椅子だ...

ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 2/4

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(1から読む) 2  そうしていま、わたしは、イリフがその人生最後の年にすばらしい手記を書いていたタイプライターにひとりで向かっている。部屋は静かでがらんとしていて、そして書かなくてはならない。慣れしたしんだ「わたしたち」という言葉のあとに初めて、空虚でつめたい「わたし」という言葉を書きながら、わたしはあの青春の日々を思い出している。  それはどんな風だっただろう?  わたしたちふたりはオデッサに生まれ育ち、モスクワで出会った。  一九二三年のモスクワは、よごれて、荒れるがままに放置された、無秩序な街だった。九月のおわりに最初の秋雨が降ると、丸石で舗装された道の泥は初霜のころまでほうっておかれた。獲物街〔オホートヌイ・リャド〕と食いしんぼう街〔オブジョールヌイ・リャド〕では、個人商人が商売をしていた。荷馬車が音をとどろかせて行きかっていた。干草が散乱していた。ときおり民警のホイッスルが鳴りひびき、すると無許可営業の商人たちが籠や木箱で道ゆく人を押しながら、緩慢でふてぶてしい態度で路地へと散っていくのだった。モスクワ人たちはそれを不快そうに見つめていた。あごひげも生えた大の男が、赤い顔をして目を見ひらいて通りを逃げていくさまは気持ちのよいものではない。アスファルトで固められたボイラーのそばには浮浪児たちがすわりこんでいた。路端には辻馬車がとまっていた—— 奇妙なかたちをした馬車で、大きな車輪と、ふたりがやっと座れるほどのせまい座席がついている。モスクワの辻馬車の御者は、ひび割れた翼をもつプテロダクティルスに似ていた—— 時代おくれの遺物で、そのうえ酔っぱらっていた。その年、民警に新しいユニフォームが支給された。黒い毛皮のコートと、灰色の人工ラムスキンでできた防寒帽の表には赤いラシャが張ってあった。民警は、この新しいユニフォームをとても自慢にしていた。しかし、それよりもっと自慢にしていたのは赤い警棒で、きびきびしているとはいいがたい通りの往来を指揮するために支給されたものだった。  モスクワは飢饉の年のあとでお腹を満たしつつあった。破壊された古い生活様式にかわって、新しい生活様式がつくられていった。モスクワには、この巨大な都市を征服しようとする地方の若者の大群が押しよせていた。日中のうち、彼らは職業紹介所のあたりにたむろしていた。夜はターミナル駅や遊歩道で眠るのだった。...

ナボコフの手紙(1937年4月15日)

イリフは1937年4月13日の夜、モスクワで死んだ。 その2日後、パリにいたナボコフは、当時離れて住んでいた妻のヴェーラに宛てて、つぎのように書いた。 「かわいそうにイリフが死んでしまった。なぜか、シャム双生児が離ればなれにさせられる光景が目に浮かんでしまう」 (1937.4.15日付、パリ、ヴェルサイユ大通り130、ヴェーラ・ナボコフ宛) ▷ドミトリ・ナボコフ/マシュー・J・ブルッコリ編『ナボコフ書簡集 1』江田考臣訳、2000年、みすず書房より引用・抜粋

ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 1/4

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1  あるとき、アメリカ旅行中にイリフと口論になった。ことが起こったのはニューメキシコ州にあるギャラップというちいさな町で、ちょうどその日の晩のことはわたしたちの本『一階建てのアメリカ』の〈ついていない日〉と題された章に書かれている。  ロッキー山脈を渡ったところで、わたしたちはひどく疲れていた。それなのにまだそこからタイプライターの前に座って、『プラウダ』のために時事コラムを書かなくてはいけなかった。  ホテルの殺風景な部屋に腰をおろして、蒸気機関車の操車時のホイッスルや鐘の音に憮然と耳をかたむけていた(アメリカの鉄道はしばしば街中を通っていて、蒸気機関車に鐘がとりつけられていることもよくあった)。わたしたちは黙りこくっていた。ごくまれに、どちらかが「それで?」と言うばかりだった。  タイプライターはカバーがはずされて、差し込み口には紙の束がセットされていたが、仕事が進む気配はなかった。  じつのところ、わたしたちの十年間の文学活動を通してみれば、こうしたことはよくあった ―― なによりむずかしかったのは、はじめの一行を書くことだ。それは耐えがたい時間だ。わたしたちは、いらいらしたり、腹をたてたり、お互いをせっついたり、かと思うとその後はまるまる一時間も黙りこんでみたり、しぼり出さないと一語もでてこない状態なのに、急に勢いづいておしゃべりを始めたりした。それも、自分たちの主題とはなんの関係もない ―― たとえば、国際連盟のことや、同盟作家のできの悪い作品のことなんかを。それからふたたび黙りこむ。わたしたちは、自分たちがろくでもない怠け者で、この世に存在することだけを許されているやつらだ、というような気がしてくる。自分たちがとほうもなく無能で、愚かに思えてくる。お互いを見るのもいやになる。  たいていは、そんな耐えがたい状態が限界に達したころ、ふいにはじめの一行が姿をあらわす ―― まったくありふれた、なんの変哲もない一行だ。それを口にしたわたしたちの片一方にはなんの確信もない。もう片方が、浮かない顔つきでそれをすこしばかり手直しする。ふたりでその一行を書き出してみる。するとそのとたんにすべての苦しみが終わりを告げる。わたしたちは経験で知っていた ―― 最初のフレーズさえあれば、仕事は動きだす。  ところがこのニューメキシコ州のギャラップという町では、どうにも仕事が...

短編『KLOOP』(1932年)全訳

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「もうムリだ、ちょっと待ってくれ。今ここで、この看板の意味するところを知らないと、私は病みついてしまう。何かしらの謎の病で死んでしまう。二十回もそばを通っていながら、何ひとつわかっちゃいないのだから」  ふたりの人間が、とあるエントランスで立ちどまった。その頭上には、金色と瑠璃色で、丹念にこう書かれていた。 KLOOP 「なにがそこまで興奮させるのかが、わかりませんね。KLOOPはKLOOPですよ。小包の受け取りが一時から三時までなんです。よくある施設ですよ。先へ進みましょう」 「いいや、わかってくれ! KLOOP! これが私を苦しめて二年にもなる。こういう名称のついた施設で、人は何に従事しているんだろう? 何をしているんだ? 何か備蓄しているんだろうか? あるいは、逆に、何かを配給しているとか?」 「ほうっておきなさいよ、まったく暇人なんだから。人々はもっぱら座って、働いていますよ、誰にも迷惑をかけちゃいません、だのにあなたは固執して ――なぜです、なぜなんです? 行きますよ」 「いいや、行かない。きみは怠けものだ。私は、これをこのままにはしておけない」  車体の長い車がエントランスに停まっていて、鏡のようにピカピカのガラスの向こうには、ドライバーが座っていた。 「おたずねしますが、同志」と暇人は聞いた。「KLOOPとはどういう施設でしょうか? ここでは何をしているのでしょう?」 「何をするかだなんて、誰が知るもんですか」とドライバーは答えた。「KLOOPはKLOOPですよ。どこにでもあるような施設です」 「なんですか、あなたはよその車庫から来た方ですか」 「どうしてよそから来ることがありますか! うちの車庫です、KLOOPのです。私は設立初日からKLOOPで働いてるんです」  車の運転手からは、はかばかしい答えが得られなかったので、知人ふたりはちょっと話し合って、エントランスの中へ入った。暇人が前を行き、怠けもののほうは不満げな顔つきをして少し後ろを行った。  実際のところ、暇人の難癖をつけたがるくせは、とうてい理解しがたかった。KLOOPのエントランスホールは、他の千のホールと何も異なるところはなかったのだ。伝書係の女性たちが、後ろを編み上げブーツの黒い紐で結んだ灰色のみすぼらしいチュニックを着て走り回っていた。入り口のそばには、毛皮のフェルトブーツを履き、塹...

『KLOOP』とスターリン

▷リジヤ・ヤノフスカヤ『ミハイル・ブルガーコフにまつわる回想記』2007年より抜粋・訳出 “1932年12月、『プラウダ』紙にイリフとペトロフの『KLOOP』が掲載された。アーロン・エルリフは、1930年代にプラウダの文学部門にいた人物で、何年もたってから私に話してくれたのだが、『KLOOP』公表後、プラウダ編集長メフリスに呼び出されて、こう聞かれたという。「きみはイリフとペトロフのことをよく知っているのか?」「ええ」エルリフはハキハキと答えた。「彼らの保証もするか?」「え、ええ」やや意気をそがれてエルリフは答えた。「首をかけて保証するか?」「え、ええ」エルリフは答えたが、すっかり消えいらんばかりだった(このことを物語るときでさえ、彼の口調は苦渋に満ちていた)。 「昨日、私はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ〔訳注:スターリン〕と一緒だった」とメフリスは言った。「さっきの質問は私がされたものだ。私も同じように答えておいた」そして、頼みこむような調子でつづけた。「だけど覚えておいてほしい。君が責任をもって、『KLOOP』を繰り返さないようにしてくれ」” В декабре 1932 года в «Правде» был опубликован фель­етон Ильфа и Петрова «Клооп». Арон Эрлих, в 30-е годы за­ ведовавший отделом литературы в «Правде», много лет спу­стя рассказывал мне, как после публикации «Клоопа» его вызвал главный редактор «Правды» Л. З. Мехлис и спросил: «Вы хорошо знаете Ильфа и Петрова?» — «Да», — с готов­ностью ответил Эрлих. «И ручаетесь за них?» — «Д-да», — ответил Эрлих не так бодро. «Головой?» — «Д-да», — отве­тил Эрлих, окончательно угасая (и даже в пересказе слыша­лась эта его обрече...

上田進『黄金の仔牛』訳書あとがき(1940年)

▷日本大ロマン全集17(東京創元社、1958年)所収の「あとがき」は、1940年に書かれた「あとがき」の抜粋編集版となっています。すでに著作権も切れていますので、ここに本来の「あとがき」全文を掲載します。 _______  イリフ=ペトロフの第一作『十二の椅子』は、数年まえにわが国にも翻訳されて、一部の識者のあいだでは非常に高く買われた。たとえば林達夫氏は『思想の運命』のなかの『諷刺小説の三つの形態』で、こんな風に書いている。  「…世界戦争以後、世界文学は一体幾らの諷刺的傑作によって豊富にされたのであろうか。私の見るところでは、チェコ・スロバキアの作家ヤロスラフ・ハシェークの『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』を先ず第一位とすれば、二流品ながらこの『十二の椅子』がその次位に据わるべき現代的作品といわれなければならぬように思われる。」  また林氏はこんなこともいっている。 「これはソビエト文学で初めて公開された、この国の否定的現実の万華鏡である。そしてこの万華鏡は従来の諷刺小説にない一つの新しさを示しているものである。」…「この『十二の椅子』の余裕綽綽たる、明るくて、快活な、『上からの諷刺』——それは全く新しい一つの諷刺的様式の少くとも萌芽を示すものということができよう。」  その『十二の椅子』の出現は、ソビエト連邦においても、たしかに一つの驚異であったにちがいない。そしてそれはソビエト文学に新しい分野をひらいたものとして非常に問題にされ、また非常に歓迎されたものである。  ここに訳出した『黄金の仔牛』は、そのイリフ=ペトロフの第二作である。モスクワで一九三三年に出版されたものだ。第一次の五ヶ年計画にともなって、ソビエト文学の波が画期的な高まりを見せ、ショーロホフの『静かなドン』と『ひらかれた処女地』、パンフョーロフの『ブルスキー』、アレクセイ・トルストイの『ピョートル一世』、グラトコフの『エネルギー』、レオーノフの『スクタレフスキイ教授』、シャギニャンの『中央水力発電所』、ノヴィコフ・プリボイの『ツシマ』等の傑作が輩出した時代に出たもので、いうまでもなくそれらの傑作と肩をならべて、その時代のソビエト文学の代表的な作品の一つと見なされている。  この『黄金の仔牛』であつかわれているのは、新経済政策(ネップ)から社会主義建設へうつってゆく時代である。その時代のソビエトの社...

ナボコフのイリフ&ペトロフ評

▷Vladivir Nabokov,  Strong Opinions , 1973 より抜粋・訳出 (インタビュアー)ソビエトの作家の中で、あなたが感心する作家はいますか? (ナボコフ)イリフとペトロフは、すばらしい才能をもった作家です。彼らは、やくざないかさま師を主人公に据えたら、そいつのどんな冒険を描こうと、決して政治的な観点からは非難されないようにしました。なぜなら、そいつは完璧にやくざな男で、狂人で、非行に走った人間で、ソビエト社会の外側にいる奴だからです。言い換えるなら、あらゆる悪漢的人物は、よいコミュニストでも悪いコミュニストでもないのだから、糾弾されるいわれはないということです。そういうわけで、イリフとペトロフ、ゾーシチェンコ、オレーシャは、完全に独立した基準でみて、まさしく一級品のフィクションをいくつか出版することができました。1930年代初頭まで、彼らはそれでうまくいっていました。   Are there any writers totally of the Soviet period whom you admire? <....> Ilf and Petrov, two wonderfully gifted writers, decided that if they had a rascal adventurer as protagonist, whatever they wrote about his adventures could not be criticized from a political point of view, since a perfect rascal or a madman or a delinquent or any person who was outside Soviet society — in other words, any picaresque character — could not be accused either of being a bad Communist or not being a good Communist. Thus Ilf and Petrov, Zoshchenko, and Olesha managed to publish some ab...