短編『戸籍登録員の過去』(1929年)訳 1/5
木曜の晩、ショーレストラン〈サルヴェ〉の華やかに飾りつけられたホールでは、つぎのような大規模プログラムが催されていた。
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ドラフィール姉妹が(三人だった)、ヴェルサイユの庭園を背景に描いた極小の舞台を動きまわり、ヴォルガなまりでこう歌っていた。
あなたの目の前を小鳥のように
そこここ軽く飛びまわるの
群衆はわたしたちに拍手かっさい
貴族のおえらがたもみんな大喜びよ
この一節を歌いおえると、三人姉妹はぶるっと体をふるわせ、手をとりあって、しだいに強まるピアノの伴奏にあわせ、あらんかぎりの声でリフレインを歌いはじめた。
わたしたちは飛びまわる
涙なんか知らぬげに
わたしたちのこと、みんなが知っている
賢い人も、おばかさんも
ドラフィール・トリオの懸命な踊りと魅惑的なほほえみは、スタルゴロド社会の最先端をいくグループにはなんの印象も与えなかった。そのグループとは、ショーレストランの中では、市議会議員のチャルーシニコフとそのいとこの女性、クリーム色のドレスを着たいとこをふたり連れてほろ酔い気分で座っている第一級商人のアンゲロフ、役所づき建築士、町医者、三人の地主、それよりは劣るがそれなりの社会的地位をもち、いとこの女性を連れていたり、連れていなかったりする多くの人々、といった面々で構成されていたが、彼らはドラフィール・トリオに陰気な拍手を送りつつ、「家族のハレの夕食、メゾン・マムのシャンパン(グリーンリボン)つき、一人につき二ルーブル」の喜びにふたたび身をゆだねた。
テーブルの上の白い金属でできた風変わりなメニュー立てには、魅惑的な空色のメニューが立てかけてあり、その内容は、商人のアンゲロフにはしたたか酔わずにはおれない退屈さを抱かせるものだったが、十七歳ほどの青年にとっては、うっとりするような、尋常ならざるものなのであった。彼は、安い感じの、かなり成熟したいとこの女性と舞台のすぐそばに腰かけていた。
青年はもう一度メニューを読みかえした。〈小スズキのポーピエット。ひなどりのソテー。かるく塩をしたキュウリ。スフレグラッセ・ジャンヌダルク。メゾン・マムのシャンパン(グリーンリボン)。奥さまがたには、生花を〉。彼はひとり、頭のなかであれこれの金額のバランスをとると、おそるおそる夕食をふたりぶん注文した。この青年が泣きべそをかいてからもう半刻はたっていたが、そのときは商人のアンゲロフが、食料雑貨商ドミトリー・マルケロヴィチの息子であるこのギムナジウム生が変装してきているのを見やぶって大声で助け舟をだし、老給仕のピョートルをなだめたのだった。給仕は憤慨してぶつぶつ言っていた。「もしお金がなかったら、どんな名目でフルーツを請求すりゃいいんです。献立表には載っていないんですから。特別料金なんですよ」。黒い足のついた猫の毛皮の襟巻きをコケティッシュにまとったいとこの女性が、右へ左へお尻をつき出しながら後ろを歩いてきていた。辱しめられたギムナジウム生を追うように、商人のアンゲロフが嬉々として何度もこう叫んでいた。「落第生! 留年生! パパに言うぞ! お前のご祝儀興行になるだろうね!」
ドラフィール姉妹のパフォーマンスがもたらした退屈は、あとかたもなく消え去った。舞台に、有名なマドモワゼル・ブレジーナがゆっくりと出てきたのだ。彼女は脇を剃りあげており、その小さな顔は天性の美しさだった。歌姫はダチョウの毛皮の衣装に身を包んでいた。歌いもせず、話もせず、踊ることすらしなかった。観客をやさしく見つめながら舞台のうえをゆっくりと行き来し、するどい叫び声とともに、パートナーである生気のないひげの紳士がかけている針金製の鼻眼鏡を、この上なく美しい足の先ではたき落としていた。アンゲロフと町の建築士、ひげをそったご老人が、興奮で我を忘れた。
「こりゃたいしたもんだ!」アンゲロフはおそろしい声を出した。
市議会議員のチャルーシニコフは、〈フォリー・ベルジェール〉からきたこの妖精に心の臓をぐさりとやられて、椅子から立ちあがると、距離をはかってから紙テープを舞台へ投げた。紙テープの輪は半分までしかほどけず、魅惑的な歌姫の顎にあたった。ほんものの活気がホールを覆った。シャンパンが頼まれた。町の建築士は涙を流していた。地主たちは、自分たちの持ち村に来てくれと、町の医者をしきりに誘っていた。オーケストラがファンファーレを演奏しはじめた。
喜悦が最高潮に達したとき、大きな声が響きわたった。オーケストラが黙りこみ、最初に入口のほうを振りかえった建築士は、はじめひどく咳きこみ、それから拍手をしはじめた。ホールに入ってきたのは、浪費と道楽で知られた、郡貴族団長のイポリート・マトヴェーヴィチ・ヴォロビヤニノフで、ふたりの全裸の婦人の手を引いていたのであった。後ろを市警察分署長が色とりどりの荷物を小脇に抱えて歩いてきたが、それはどうやらイポリート・マトヴェーヴィチの連れの婦人がたが脱いだ衣装のよせ集めだった。
「どうか、殿下」分署長は声をふるわせていた。「職務上の義務から申し上げますが…」
裸の婦人たちは、まわりの人びとを好奇の目で見ていた。ホールの中は動揺しはじめた。気をそがれなかったのはアンゲロフただ一人だった。
「やあやあ! イポリート・マトヴェーヴィチ!」と彼は大声を出した。「いさましいな! さあ、キスさせてくれ」
「職務上の義務から申し上げますが」分署長はこらえきれず、断固として言った。「法規は許しておりません!」
「なんです?」イポリート・マトヴェーヴィチはテノールの声をだした。「あなたはどなたですか?」
「サドーヴァヤ地区第六分署の分署長、ユーキンです」
「ユーキンどの」とイポリート・マトヴェーヴィチは言った。「警察署長のところへ、あなたが私をうんざりさせた、と報告しにいってくるんですな、それから職務上の義務にしたがって、やりたいようになさってください」
そうしてイポリート・マトヴェーヴィチは女性たちを連れ、別室へ傲然と歩みをすすめた。間をおかず、不安げなようすの支配人と、〈サルヴェ〉のオーナー本人、完全に理性を失ったアンゲロフがそこへ駆けこんでいった。
スタルゴロドの社交界で最先端をいくグループをざわつかせたこの事件は、それと似たあらゆる事件がたどるのと同じ末路をたどった。すなわち、二十五ルーブルの罰金と、当地のリベラル紙〈公の考え〉に出た、『団長の遍歴』という軽率な見出しのついた小記事である。記事は、うわずった調子の文体で書かれ、次のような書き出しで始まっていた。
「平穏なわが町では、事件がおきる、これすなわちセンセーションなのである!
そしてまるでわざとのように、あらゆるセンセーションに巻き込まれているのが、他ならぬ、有力者たちなのだ!!」
記事は、イポリート・マトヴェーヴィチのイニシャルを挙げ、よくある形でしめくくられていた。「もっと悪い時代はあったが、これより下劣な時代はなかった」…そして、巷で人気のある風刺コラムニスト、〈デンマークの王子〉の署名が書かれていた。
その日のうちに、特別市長のもとで特別な任務についている役人が編集部に呼び出しをかけ、感じのよい調子で、デンマークの王子氏に、午後四時までに市長室へ説明に出向いていただきたいと求めてきた。デンマークの王子は一気に気がふさぎ、もはや風刺ルポを書き上げるどころではなくなった。指定された時刻に、君主たるジャーナリスト氏は、特別市長の待合室にすわり、どきどきしながら、ファインシュタイン教授のコースでも治せなかったほどどもりのある自分が、かっとなりやすく、新聞の技術的なことなどなにも理解しない市長とどうやって話しあうべきか、考えていた。
市長はデンマークの王子の青ざめた顔をいっぷう変わった満足感をもってみつめ、王子のほうは、無駄に力をふりしぼり、彼にとっては異様にむずかしい言葉を発した。
「特別市長閣下」
会見は、市長が席から立ってこう言ったことで打ちきられた。「あなたの心の平安のためには、こういうことはもうこれ以上口にしないことをおすすめします」
ここまで「特別市長閣下」という言葉を征服しおおせていたデンマークの王子は、ひときわ強くどもり音を発しはじめたが、あえてほほえみを浮かべ、そっくりかえらんばかりに力を込めて、自分の中からつぎの答えをひっぱりだした。
「ぼぼぼくはいいいつもここんな口のききかたなんです!」
王子の機転は、じゅうぶん高くついた。新聞は百ルーブルの罰金を支払い、つづくイポリート・マトヴェーヴィチの遍歴について、もう書くことはなかった。
思いがけないふるまいは、イポリート・マトヴェーヴィチの子ども時代からの特徴だった。
▷初出:『30日』1929年、第10号
▷原文(※):https://ruslit.traumlibrary.net/book/ilfpetrov-ss05-01/ilfpetrov-ss05-01.html#s007001
▷翻訳:Ayako Kagotani
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