連作短編『コロコラムスク市の尋常ならざる話』コメンタリー
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1. 青い悪魔
…「やつを知ってるぞ」誰かの若い声がした。「あれはクリャトヴィア国の大使だよ。…
クリャトビア(Клятвия):架空の国名。ラトビアがモデルだという説がある。
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…モスクワへの出稼ぎには、あらゆる者が手をのばした。………とりわけこの事業に夢中になったのは、青い上衣を着た辻馬車の御者らだった。…
青い上衣を着た(в синих жупанах):ロシアには「財布は空なのにカフタンは青い」ということわざがあり「見栄っ張り」を意味する。色物のコートは上等品の比喩(戸辺又方『ロシアの言語と文化』1996年、ナウカ、95ページ)。青い上衣を着た=服にお金をかける伊達者という含意だろうか(服にお金がかかるため出稼ぎに夢中になる)。
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…最初の厳寒が襲うころ、コロコラムスクからモスクワへ向けて、偽協同組合「個人労働」議長のムッシュ・ホントーノフが、足取り重く出発した。…
偽協同組合 (лжеартель):実際にこの時代のソヴィエトには、偽の協同組合というものがあり、それをかくれみのにして私腹を肥やす商人がいたらしい。「ネップ時代にはあらゆるにせの協同組合が無数にあった。それらが、繁盛していた商店を駆逐していった」(チュコフスキー)。イリフ&ペトロフは再三こうした「偽の⚪︎⚪︎」の存在を指摘していて、偽協同組合については後の作品『黄金の仔牛』(1931年)第5章でも再度言及している。(参考:Щеглов. Романы Ильфа и Петрова. Спутник читателя. СПб. 2009. C393)
ムッシュ・ホントーノフ(мосье Подлинник):原文を音読みするとムッシュ・ポードリンニク。「ポードリンニク」とは普通名詞でもあり、「原本、原画、オリジナル」を意味する。つまり「偽」の協同組合をやっている男の名前が「本物」を意味するところに皮肉があり、おかしさがある。音訳のムッシュ・ポードリンニクではそのニュアンスが伝わらないので、「嘘」と対になる「本当」から発想してムッシュ・ホントーノフとした。
2. 南米からの客
…その辺境での平和な生活は、薔薇色の羅紗のスーツを着た不思議な紳士がアルゼンチンからやってくるまで続いたのである。
…かつてゲラシム・フェドレンコと呼ばれた男が、今から三十年前にコロコラムスクをあとにし、…
アルゼンチン移民:ロシア(ソヴィエト)からアルゼンチンへの移民には何度かの波がある。この物語が発表当時(1928年頃)の社会を舞台にしていると仮定すると、ゲラシムがアルゼンチンへ移民したのはその30年前の1898年頃のことで、これは移民の第2波にあたる。ちなみに、ロシアがウクライナに侵攻した2022年以降、戦争参加を避けようと多くのロシア人たちがアルゼンチンへ移民しているが、これは第6波にあたる。
設計図の元になったのは、「活ける教会」派に属するゾロアスターコフ神父が持ち込んだ、十八フントもあるセムキノの聖書に描かれたギュスターヴ・ドレのさし絵であった。…
「活ける教会」派(живая церковь) :1922年になって正教会内部にできた革命政権寄りの組織。指導者の中には、レーニンをキリストの一人であると公言するような者もいたらしい。(参考:安村仁志「現代の古儀式派」1983年)
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…ニキータ・プソフは箱舟の前でブーツを脱いで、そこから「カーチェンカ」を取り出し、それによって妻と常緑のゴムの木を同船させることを許された。…
カーチェンカ(катенька): 帝政時代の100ルーブル札。エカチェリーナ2世が描かれていたため、カチェリンカあるいはカーチェンカと呼ばれていた。
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…市民たちはせっぱつまって怒鳴り声を上げた。
「中に詰めて! 前のほうは空いてるだろ!」
「みなさん、カラスの鳥籠を通してやってください!」とヴァシスアーリイ・ロハンキンが叫びたてた。…
カラス(ворон):「洪水」によって「方舟」を作ったり「ノア」船長が出てきたりと、この話はあからさまに旧約聖書の「ノアの方舟」のパロディになっている。ロハンキンがカラスを持ち込むのも「ノアの方舟」を意識しているからだろう。旧約聖書(創世記8章)によれば、ノアは洪水のあと、水が引いたことを確かめるためにカラスを放っているので。
ちなみに、ロハンキンのせりふ「天の底が抜けたみたいな大雨だ(Разверзлись хляби небесные.)」は直訳すると「天の深淵が開いた」となる。ここも、創世記7章の洪水の描写(「天の水門が開かれた」あるいは「天の窓が開いた」)と響き合っている。
... 十四世紀の昔、コロコラムスクを治めるアンドレイ・オレスキイ公の馬丁が、ビザンチンの酒をしこたま飲んで酔っぱらい、...アンドレイ・オレスキイ公(князь Андрей Себялюбский):原文を音訳すると「アンドレイ・セビャリュプスキイ公」となる。セビャリュプスキイの語源себялюбは「エゴイスト」。себя(自分が)люб(好き)から発想してオレスキイ公とした。
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...毎朝そこに火をつけるのは、この家の主である消防司令官、炎のメラーエフで、...
炎のメラーエフ(Огонь-Полыхаев):原文を音訳すると「炎のポリハーエフ」。「燃えさかる」という意味の動詞ポリハーチ(полыхать)から来ている名前だと思われるので、炎が燃える音を連想させるメラーエフという名前にした。
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追いはぎソロヴェイチク(Соловейчик-разбойник):ロシアではよく知られた伝説上の人物「追いはぎソロヴェイСоловей-разбойник」のパロディ。オリジナルの追いはぎソロヴェイは、森の中で旅人を待ち伏せして襲いかかる盗賊。最終的には英雄のイリヤ・ムーロメツに目を弓で射られて殺される。... 彼はそこで松林に埋もれて税金逃れをしているにもかかわらず、仕立て代をふんだくるので、コロコラムスクの人びとからは追いはぎソロヴェイチクと呼ばれている。...
...委員長は車から降りると片膝をついて、ザヴィトコフに接吻したのであった。...
(夢の中で)委員長はどこに接吻したか:掲載雑誌には「唇に(в губы)」と書かれ、唇に接吻する委員長のイラストも添えられている。
| 雑誌『チュダーク』1929年、第5号 |
ところが、この夢を見たザヴィトコフが、周りの人に夢の内容を告白するセリフでは「執行委員長が、おれの手に接吻した。みんな、おれを縛りあげてくれ!」と、手に接吻されたことになっている。掲載雑誌でも、このセリフでは「手に(ручку)」と発言していることが確認できる(下記)。
…偽協同組合の議長は、自分の新しい出自に並々ならぬ熱意を示した。彼はプリヴォーズニィ市場に行って樹皮で編んだ靴をひと束買い入れると、県の中心部までわざわざ歩いていって、幹部のプリントゥソフ同志とその夫人、そしてその子であるゴーガ少年と少女デマゴーガにその靴を献上したらしかった。…
樹皮で編んだ靴の束(связка лаптей):樹皮で編んだ靴はロシアでの伝統的な履き物で、農民など民衆が履いた。なぜプロレタリア〔労働者〕階級であることをアピールするために、樹皮の靴を持っていったのか、不明。ことわざや慣用句にひっかけているのだろうか。
7. 黄金の詰め物
…あとからもっと産むでしょう。私はこの手の話を聞いたことがありますよ。まさに、金の卵を産むめんどりという、よく知られた話です。…ひとりの愚か者が、こういうめんどりを切り殺してしまってるんです。そういう前例の話です…
金の卵を産むめんどり:イソップ物語の中に金の卵を産むガチョウの話がある。 大筋は似ているが、コロコラムスクではたった1日卵を産んだだけで鶏を切り殺そうとするところが、イソップ寓話とは異なる。
…「あんたたちがスポーツマンだなんて、どこに書いてありました?」オトメジューエフはぶつくさ言った。「どうやって知りようがありますか? 規則では、三回警告したら発砲することになってるんです。…
なぜ気球乗りがスポーツマンなのか: 現代の文脈ではやや意味不明。1930年代のソヴィエトでは気球に乗ることがスポーツとして行われていたらしいので、ガローシニク号はその先駆的な例として描かれているのだろうか。一方、それ以前の内戦期(1917〜1922年)には気球はもっぱら戦闘で使われていたようだ。そう考えるとコロコラムスクの人が敵襲と誤解したのも無理ないのかもしれない。(参考サイト)
…「警察署長のオトメジューエフに何か指示はございますか?」と、ゴーゴリの戯曲『査察官』の台詞風に言った。…
ゴーゴリの戯曲『査察官』:第4幕3場に似たセリフが出てくる(Не будет ли какого приказания?)。有名な戯曲なのでロシア人ならすぐにピンと来るのかもしれない。
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彼は、ツングースカ大爆発の調査を率いているレオニード・クリークの華々しい業績に、夜も眠れない思いをしていたのだった。
レオニード・クリーク: 鉱物学者。ソヴィエトで初めて科学的な隕石探検を実施した人物。当時もツングースカの大爆発の調査を行っていた。「ツングースカ大爆発の調査を率いている」という表現はじつは原文にはない。訳注を入れると長くなってしまうため訳文中の修飾語として入れることにした。
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「ふむ、ご老人」と教授は愛想よくたずねた。「火葬場へ行く頃合いだね?」「頃合いです、だんな」一世紀半生きている老人は喜ばしげに答えた。「うちらの、ソベートの火葬場へ行きますよ。うちらの、安置場へね!」…
火葬場へ行く頃合い( в крематорий пора?):老人に向かって「そろそろ火葬場へ行く頃合いだね?」と冗談を飛ばすやりとりは、著者のお気に入りだったのか、のちの作品『黄金の仔牛』(1931年)第4章にも、ほぼ同じ形で出てくる。
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…「おっと、どれどれ、新聞に何か書いてある…」と彼はつぶやく。「『全員スタロハムスキイ教授捜索へ』、『スタロハムスキイ教授救助探検隊』。僕を探してるんだ。ああ! 見つけてくれるだろうか!」 …
…一ヶ月してようやく、探検隊はたしかな足どりをつかんだ。…
捜索が難航した理由: 新聞に掲載されたのならすぐに見つけてもらえそうだが、見つけ出すのに1ヶ月もかかったり、そもそも見つけてもらえるかを心配したりしているのは、コロコラムスクが地図に載っていない町(『町とその周辺』参照)だからではないだろうか。
10. 第二の青春
…「うむ」医師は厳しく問いただした。「『教えておくれ、パレスチナの小枝よ』。何がどうしたんだね?」グロム医師は詩の引用で飾り立てて話すのが好きであった。…
…「『子らが家に駆け戻り、勢い込んで父を呼ぶ』、か…」とグロム医師は述べた。…
…「聞いたかい、」ついに腰をあげて医師は言った。「『聞いたかい、木立の向こうの夜の声を?』…聞いたかい、この泉が、少なく見積もってナルザン鉱水より十倍良いのを?」…
…勝ち誇ったようにグロム医師は答えた。「『嵐けむりて空を覆う』…」…
グロム医師の詩の引用:「教えておくれ、パレスチナの小枝よ」はレールモントフの詩『パレスチナの小枝」の冒頭。「子らが家に駆け戻り、勢い込んで父を呼ぶ」はプーシキンの詩『溺れる人』の冒頭。「聞いたかい、木立の向こうの夜の声を?」はプーシキンの詩『歌い手』の冒頭。「嵐けむりて空を覆う」はプーシキンの詩『冬の夜』の冒頭。グロム医師は「金の時代」の詩人がお好きらしい。
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