連作短編『コロコラムスク市の尋常ならざる話』(1929)町とその周辺 全訳
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コロコラムスクの物語を、神秘のヴェールで包んでおく必要はないであろうから、読者諸氏に以下のことをお知らせする。
A)コロコラムスクは実在する。
B)ヴォロコラムスク〔モスクワ近郊に実在する町〕とは何の関係もない。
C)コロコラムスクは、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国と、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国のちょうど境にある。それゆえ、これらの友好的な連邦共和国のどちらの地図にも載っていない。これに関しては、我々の地理学者の責任だと言わざるをえない。
新聞記者や、ルポライター、地方生活ライターはどうしていたのかといえば、彼らは、コロコラムスクを目指そうとはするものの、奇妙な運命のいたずらによってヤルタやキスロヴォツクに行き着いてしまっていた。そうしたところは書くに値する最良の場所なものだから、彼らは熱心にそれらの町の記事を書いてきたのであった。
しかし筆者は、画家K・ロトフとともにコロコラムスクにたどり着き、そこのホテル「リャジスク」に滞在して、驚くべきこの町の全体図をとることに成功した。
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| K・ロトフによる見取り図 |
図からもわかるとおり、栄えあるコロコラムスクの町は、ゆるやかに流れるズブルヤ河の左岸に悠然と広がっている。十四世紀の昔、コロコラムスクを治めるアンドレイ・オレスキイ公の馬丁が、ビザンチンの酒をしこたま飲んで酔っぱらい、公の馬具〔ズブルヤ〕を川へ落とした。馬具は沈み、それ以来川はズブルヤと呼ばれるようになった。
この事件から時は流れて数世紀、オレスカヤ広場もチレンスカヤ広場と改名されて久しく、馬具を沈めた伝説を知る者はもはや老プソフ氏ひとりしかいない。彼は、ビアホール「胃袋の友」でビール瓶を傾けながら、我々にこの伝説を語ってくれたのであった。
ズブルヤ河には、ヴォジャ〔手綱〕川という、取るに足りない細流が流れ込んでいる。この川については何の情報も得られなかった。というのも、メストコモフスカヤ大通りに並んでいる全てのビアホールでご馳走してからでないと、覚えていることを話さないと老プソフが譲らなかったからである。
「サニタス〔健康〕」、「夜明けまで」、「小ルーシ」、「火葬」、「過去の声」といったビアホールと、エメリヤン・プガチョフ〔18世紀末に農民反乱を率いたコサック〕を冠したビール工場を順繰りにまわって、客人の金でたらふく飲み食いした老プソフは、口をきくこともままならなくなって、もはや我々の期待に応えることはできなかった。
すでに紹介したメストコモフスカヤ大通りが、町の大動脈である。この通りが、チレンスカヤ広場と鉄道駅とを結んでいる。チレンスカヤ広場は、読者にはすでにお馴染みの高層ビルの骨組みがそびえ立っているところだ。そこから大通りは河へと下っていく。ノア・ポホチッロ船長が操縦する渡し舟に乗れば、対岸に渡ることができ、そこから町を囲む鬱蒼とした森に行くこともできる。その昔、タタール人が炎や剣、洪水や略奪、飢えや疫病をコロコラムスクに持ちこむのをこの森が阻んできたのだった。
森に分け入ると、個人で仕立て屋を営むソロヴェイチクのところへたやすく行き当たる。彼はそこで松林に埋もれて税金逃れをしているにもかかわらず、仕立て代をふんだくるので、コロコラムスクの人びとからは、追いはぎソロヴェイチクと呼ばれている。
右手の丘の上には、かつての修道女たちの協同組合「副詞的分詞」がそびえている。修道女は、じぶんたちで作ったものを、セミバトゥーシナヤ関所にほど近いペレウチョートニィ横丁の売店で売りさばいている。
町の東部の自慢は、くだんの箱舟が建設された二本のビーウシャヤ通りと、無申告通りと地震通りである。後者は、日本でよくある地震にちなんで最近こう名付けられた。
このあたりでいちばん大きな横丁はポホトリーヴィ〔好色〕横丁で、そこには素敵な個人経営の風呂屋がいくつかある。
特筆すべきことが何もないメルコラヴォーチニィ、マロソーリニィ、マロホーリニィの三つの横丁はさて置いて、町の汚点である猟奇小路のことを書いておこう。この名前は、酔っ払って夜遅くにここへ這いずり込んでしまった通行人が、毎晩のように強盗に遭うことからついたものだ。
町の東部の観光名所のうち、特筆すべきはロシア=ウクライナ「脱・文盲」協会と、セミバトゥーシナヤ関所そばの燃える家だ。この家は、もう五年のあいだ毎日燃えている。毎朝そこに火をつけるのは、この家の主である消防司令官、炎のメラーエフで、信頼する部下たちの消防隊に仕事を与えようとして、そんなことをしているのであった。
駅前にあたるコロコラムスクの南部では、スタロレジームヌィ並木道がきわだって美しい。町の最もしゃれた場所でもある。ここには、救世主-協同組合広場があり、ムッシュ・ホントーノフが率いる偽協同組合「個人労働」がある。シンジク=ブガエフスキイの軍用朗読・歌唱教室や、古キリスト顕現聖堂もある。人で賑わっている湿度測定通りもある。この通りに面した療養所「すべては治療のため」は、素晴らしい建物だが、残念なことにまだ完成していない。
とりわけ驚かされるのは、救世主-協同組合広場に、無名商人の墓があることである。
新経済政策〔通称ネップ。1921年から始まった自由経済的な政策〕のはじめごろ、どこの馬の骨ともしれぬ商人が、馬毛を探しもとめてコロコラムスクにやってきた。彼は一日じゅう町を駆け回って品物を買いつけていたが、晩にさしかかるころ、救世主-協同組合広場で辻馬車からとつぜん転げ落ち、あっという間に亡くなった。身分証のたぐいは見つからなかった。
無名戦士の墓をもつパリやブリュッセル、ワルシャワといった都市に遅れをとりたくはないものの、さりとて戦士を調達できる見込みもなかったため(コロコラムスクから戦に行った者はこれまで一人もないのだ)、町の人々は無名の商人を広場に葬って、彼の墓に消えない炎を灯したのだった。毎週土曜になると、追悼用のハンチング帽をかぶった追いはぎソロヴェイチクが渡し舟に乗って町の中心部へやってきて、無名商人の墓のところで仕立ての注文を受け付けている。
町の西部は三つの通りと一つの横丁からなる。道幅がひろく、矢のようにまっすぐ伸びる十字-抜擢大通りに、新しく建った十字-抜擢教会が花を添えている。教会の隣には、ロシア=ウクライナ「脱・握手」協会がある。
全員一致通りとその延長、満場一致通りは、ダサードニィ横丁を介して町の南部とつながっている。ふたつの通りのあいだに、火の見やぐらと警察署がそびえている。
町の最も新しい地域はズブルヤ河の対岸地区で、ヴォジャ川とズブルヤ河によって矢の形をなしている。ここに住む市民たちが主に何をしているかは、栓抜き通りという通りの名が何よりもよく示している。
コロコラムスクの人たちがこの地区へやってくるのは、協同組合の売店が閉まる大祭日に、ウォッカを買うためなのであった。
かようなコロコラムスクの存在を、もはや疑う者はないだろうと期待する。
▷原文:
▷図版出典:『チュダーク』1929年、第4号。
▷翻訳:Ayako Kagotani

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