作家イリフの最期の日々(1937年4月)

▷イリフは1937年4月13日、結核で死去。
▷ペトロフと友人アルドフによる当時の回想を抜粋・訳出。
▷文中の〔〕は訳注。
▷ナボコフの手紙も引用して紹介。



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エウゲーニー・ペトロフによる回想(1942年)


〔1937年〕4月のはじめ、わたしはいつもの時刻にイリフのところへ降りていった〔ペトロフとイリフは、当時同じ建物に住んでいた。ペトロフは5階、イリフは4階〕。イリフは幅広のオットマンに横になり、マヤコフスキーを読んでいた(彼はいつもそこで寝ていた。寝具は日中のあいだ引き出しにしまってあった)。オットマンと床には、読み終えた新聞が置かれ、何冊かの本もあった。イリフは大変な読書家で、とくに専門的なものを好んだ。例えば戦争文学や海洋文学などだ。〔中略〕

 その日彼はマヤコフスキーを読んでいた。 

「彼の散文を読みかえしてごらんよ」起き上がって本を脇へどけると、イリフはそう言った。「どれもすばらしいから」

 イリフはマヤコフスキーを愛していた。イリフを有頂天にさせるものがマヤコフスキーにはあった。才能、背丈、声、言葉を操る卓越した力、そして何より、文学的な高潔さ。

 わたしたちは執筆のために腰かけた。イリフは具合が悪そうだった。ほとんど寝ていなかった。

「また今度にしようか?」とわたしはたずねた。

「いや、体を動かせばよくなる」と彼は答えた。「そうだ、最初は紙を切り分けよう。ずっと前からこれをやるつもりではいたんだ。なぜかこの紙のせいで落ち着かなくてね」

 先日のこと、誰かが良質な紙をイリフにプレゼントしたのだが、それは巨大な用紙で十数キロ分もあった。わたしたちはその紙を手に取って、半分に折ってハサミで切り、また半分に折って、ハサミで切っていった。はじめのうち、わたしたちはこの作業をやりながらおしゃべりをした(執筆したくないときはどんなことでも楽しいものだ)。そのうち集中しだし、わたしたちは黙って、すばやくやっていった。

「どっちが早いかな」とイリフは言った。彼は何とかしてうまく仕事を合理化し、ものすごいスピードで紙を切っていった。わたしは遅れまいと必死になった。目も上げずに手を動かしていった。とうとう、何かの拍子にイリフのほうを見たわたしは、その顔の青さに戦慄した。彼は汗をびっしょりかいて、重くぜいぜいと息をついていた。

「もういいよ」とわたしは言った。「じゅうぶんだ」

「いいや、最後までやらなくちゃ」と、驚くような強情さで彼は答えた。

 そしてやはり最後まで紙を切った。ずっと顔色は悪かったが、笑みを浮かべていた。 

「さあ、そしたらこれから仕事をしよう。ちょっとだけ休憩するよ」イリフは椅子の背にもたれかかり、5分ほど黙ってそうしていた。それからわたしたちはユーモア短編を書き始めた。ひどい官僚主義がはびこる組織のボスについての話で、自己批判運動の波のあと、組織を民主的なものにつくりかえようとして、無駄に訪問者を受け入れているような男の話だ。執筆は気が乗らなかった。いうなれば、ひねりのないテクニックを使って、わたしたちは書いていった。半分までは書き上げた。 

「明日完成させよう」とイリフは言った。その晩、わたしたちは何かの会合に出て、それから家へ戻ってきた。黙ってエレベーターリフトで上へあがり、〔イリフの部屋のある〕4階の踊り場で別れた。 

「じゃあ、明日の11時に」とイリフは言った。

「明日の11時に」

 エレベーターリフトの重いドアが閉じた。わたしは、イリフの手が立てた、その最後の音を聞いた。自分の階〔5階〕でリフトを出ると、ドアの閉まる音が聞こえた。最後の、生きているイリフの背後で閉まったドアの音。

 わたしはこのエレベーターリフトを忘れたことはない。そのドアも、かぼそく照らされ石灰でところどころ汚された新しいモスクワの家の階段も。4日間、わたしはこの階段を駆けずり回って、25号室のドアベルを鳴らし、飛び立っていきそうなほど軽い、酸素の入った青い枕をエレベーターで運んだ。わたしはそのとき、救済の力をかたく信じていた。酸素入りの枕を運ぶことが最期を意味すると、子供のころから知っていながら。もう2時間も到着を待たれている著名な教授がやってくれば、なにか、他の医者たちができなかったことをやってくれるだろうと、かたく信じていた。著名な教授を呼びにやることをすぐさま承諾した医師たちの鎮痛な面持ちから、すべてが失われたことが理解できたにもかかわらず。そして著名な教授が到着した。彼はもう控えの間に入っていたが、毛皮外套は脱がず、臨終の苦しみにいる人間のうめき声を耳にして顔をしかめた。彼はどこで手を洗えるかとたずねた。誰も答えなかった。そして臨終のイリフがいる部屋へ教授が入っていくと、もう彼に何かたずねるものもなく、彼自身も何もたずねなかった。おそらく、時間を間違えて来てしまったお客のような居心地の悪さを感じていたことだろう。

 そして最期がやってきた。自分のオットマンの上で、手を両脇に伸ばして横たわっていたイリフは、目を閉じた安らかな顔つきをしていたが、その顔が突然、一瞬にして白くなった。部屋は明るく照らされていた。遅い晩方のことだった。窓は広く開け放たれて、部屋を自由に渡っていくひんやりした4月の風が、イリフが切った紙を揺らしていた。窓の外は暗く、星が出ていた。

 これが5年前に起きたことだ。…


Е. Петров. Из воспоминаний об Ильфе. К 5-летию со дня смерти. 1942 から一部を抜粋して訳出


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ナボコフの妻ヴェーラ宛の手紙(1937年4月15日)


「かわいそうにイリフが死んでしまった。なぜか、シャム双生児が離ればなれにさせられる光景が目に浮かんでしまう」

 

▷ドミトリ・ナボコフ/マシュー・J・ブルッコリ編『ナボコフ書簡集 1』江田考臣訳、2000年、みすず書房より引用・抜粋




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友人アルドフによる回想(1963年)


 …1935年の秋、友人たち〔イリフとペトロフ〕はアメリカに行った。よく知られている通り、北米大陸を自動車で横断する過酷な旅行は、イリフの中にくすぶっていた病を先鋭化させた… 悲しいかな、イリフの病気は、適切な治療を受けたにも関わらず、母国に戻ってもよくならなかった。自分の病気を、彼は冗談で紛らわせようとしていた。『ノート』に書かれた2つの悲しいフレーズは、イリフが自分の不幸せについて述べた、おそらく全てだ2つのフレーズについてはペトロフの回想を参照。死の何日か前のこと、レストランの席で、イリフは手にグラスをとって悲しげにこんなジョークを言った。 

「Ich sterbe印のシャンパンだ…」ご存知の通り、〈Ich sterbe〉〔ドイツ語で「私は死ぬ」〕はチェーホフの最後の言葉で、チェーホフもまた結核で亡くなった。イリフは自分の病の重さを完全に理解していた。近しい者たちも、彼の病気のことを重く受け止めていたが、こんなにも早い結末がくるとは誰も予想していなかった。最後に私がイリフと会ったのは、工業博物館の大ホールで開かれた、モスクワの作家大会だった〔おそらく4月3日。理由後述〕。その日、イリフが言ったたくさんの警句のうちのひとつを覚えている。当時の新聞では、反ごますりキャンペーンが展開中だったのだが、イリフはこう言ったのだ。

「ごますり君が、いま席からひき離されている、子どもが乳離れさせられるみたいに」その言葉を発したとき、エフゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕が壇上に立ったところだった。イリフのほうは、演壇から一段高くて遠い最後列に、私と並んで座っていた。イリフはとても赤い顔をして、ペトロフと自作を読みあわせるとき、いつもそうしているように、目を閉じていた。私たちは、ふざけさえした(ペトロフが壇上で原稿を読んでいるあいだ、イリフは一段高い席で水を飲んで、大きな咳払いをする。まるで、原稿を読み上げて喉がからからになっているのがペトロフではなくてイリフであるかのように)〔この原稿はおそらく4月3日に演説された『作家は書かねばならない』〕。4月7日、イリフが病床にあると知らされた。

8日、私は見舞いに行ったが、もう病人のところへは通されなかった。そして13日の夜遅く、芸術家クラブにいた私のところに、俳優のヘンキンがやってきて、不安そうにこう聞いた。

「イリフが死んだって言ってるが… きみ、知ってるかい?」ラヴルシンスキー横町にあるイリフの新しい部屋に、電話はまだなかった。私は『プラウダ』編集部に電話をかけた。文学部門の同僚のだれだったか、もう覚えていないが、その人は悲しげにこう答えた。

「残念ながら、そうだ…」私はラヴルシンスキー横町に向かった。深夜の2時だった。イリフの部屋には友人たちが集まっていた。全員が手前の部屋に詰めていた。ただひとり、画家のロトフが(彼とイリフとは大の仲良しだった)廊下に立って、ふさぎこんだ様子で、ドアが開け放してある3つ目の部屋を覗きこんでいた。ロトフのほうへ寄っていくと、彼は私の肘をつかみ、顎をしゃくってみせ、ドア近くのソファに横たわっているイリフのほうを示した。その晩、我々は皆、階上のエフゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕の部屋へ行って、そこで朝まで時間を潰した… ペトロフ家の食堂室には、出版されたばかりの『一階建のアメリカ』の束が、まだ荷解きもされていないまま壁に沿って置いてあった。エフゲーニイ・ペトローヴィチの8歳の息子が目を覚まして食堂室に入ってきた。変な時間に客人がいるのを見ても、まったく驚かないのだった。エフゲーニイ・ペトローヴィチは悲しげに言った。

「すばらしきは子ども時代… ペーチャは、どうして僕たちがここに集まっているのか、たずねもしない。彼にとって世界は、確固とした場所なんだ」

 大勢のモスクワっ子がイリフの遺体を見送ったときも、葬儀のときも、エフゲーニイ・ペトローヴィチはすべての儀式に参加し、あらゆる事務的な差配をし、二昼夜にわたって友が安置されていた作家クラブに、何時間も座り通していた。普段のペトロフとは違うぼんやりとした様子や、内に閉じこもるような悲しげな目つきが、彼の悲しみの深さを物語っていた。告別のため、イリフの遺体は作家クラブの大ホールに展示されていた。棺のところには、入れ替わり立ち替わり友人たちがやってきた。非常に多くの文学者、画家、作曲家、舞台関係者、映画関係者、ジャーナリストが、非凡な作家に対する最後のつとめを果たしにやってきていた。しかし、なにより稀有なことといえば、外の通りから入ってきたごくふつうの人たちや読者からなる群衆が、途絶えることなく故人の脇を通ってお別れをしていたことだった。ものすごい数の群衆が、ヴォロフスカヤ通りで遺体の運び出しに立ち会った。ファデーエフが告別の言葉を述べた。行列が、火葬場に向かって動き始めた。晩になると、誰が言うともなく、幾人かがペトロフの元に集まった。私の記憶では、参加者の中にはファデーエフ、オレーシャ、カターエフ、スラーヴィンがいたと思う。エフゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕は表面上、とても落ち着いて見えた。しかし、気が塞いで意気消沈しているのは明らかだった。こうしたことがいつもそうであるように、喪失による苦渋は、時を追って彼の中に育っていった。…


В. Ардов. Чудодеи // Г. Мунблит. А. Раскин. Воспоминания об Ильфе и Петрове. М.: Советский писатель. 1963. から一部を抜粋して訳出

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