長編『十二の椅子』(1928年)第1章 翻訳

▷長編小説『十二の椅子』第1章を訳出。A・イリフによる増補版を底本に使用。
▷文中の〔〕は訳注、または読みがな。

第1章 ベゼンチュークと〈妖精〔ニンフ〕たち〉


 ある地方の町Nには、たくさんの理容室と葬儀社があった。たくさんありすぎて、この町の住民が生まれてくるのは、顔を剃ってもらい、髪を切ってもらい、頭にヘアオイル〈ヴェジェターリ〉をつけてもらってさっぱりしたら、すぐさま死ぬ、そのためだけであるかのように思えるほどだった。しかし、実際にN町の人々が生まれたり、顔を剃ったり、死んだりするのは、ずいぶんまれなことだった。N町の生活は、この上なくおだやかであった。春の宵はうららかで、ぬかるみが月光の下で無煙炭のように光っていた。そして町じゅうの若者は、その大半が、公共事業の地方委員会につとめる秘書の女の子に恋をしていて、そのせいで彼女は会費が集めにくくなっていた。

 愛と死の問題がイポリート・マトヴェーヴィチ・ヴォロビヤニノフを悩ませることはなかった。そうした問題を扱うのが彼の仕事であったにもかかわらずである。彼は、三十分の食事休憩をはさんで、朝の九時から晩の五時まで毎日その仕事についていた。

 毎朝彼は、葉脈の模様のついた磨りガラスのコップで、クラヴジヤ・イヴァーノヴナが出してくれた温かいミルクを一杯飲むと、薄暗い家を出て、風変わりな春の光が降りそそぐ、がらんとしたグベルンスキー同志通りに出るのだった。その通りは、地方の町で出くわす通りの中では最も好ましい部類だった。左手には、緑がかった波ガラスの向こうに、葬儀社〈妖精〔ニンフ〕たち〉の棺が、銀色の光を放っていた。右側には、目地がはがれ落ちた小さな窓の向こうに、棺桶職人ベゼンチュークの樫製の棺が、陰気にほこりをかぶって寂しく横たわっていた。その先では〈理髪職人 ピエールとコンスタンチン〉が、顧客に〈ネイルケア〉と〈自宅でのオンデュラシオン〔=パーマネント〕〉を約束していた。さらにその先には、美容室を併設したホテルが場を占め、その向こうの広い空き地では、麦わら色をした仔牛が、門扉だけがさびしく突っ立ったところに立てかけられている錆びた看板をそっと舐めていた。そこにはこう書いてあった。


葬儀事務所

〈ようこそいらっしゃいませ〉


 葬儀用の倉庫はたくさんあったが、その顧客のふところはさびしかった。〈ようこそいらっしゃいませ〉は、イポリート・マトヴェーヴィチがN町に住みつく三年も前に破産していたし、職人のベゼンチュークは大酒をくらって、あるときなど、一番できのいい展示用の棺を、質に入れようとしたことすらあった。

 N町の人が死ぬことはまれであった。そのことをイポリート・マトヴェーヴィチは誰よりもよく知っていた。なぜなら彼が勤務していたのは戸籍登録所で、死亡と婚姻を登録する机についていたからである。




 イポリート・マトヴェーヴィチの仕事机は、古い墓標に似ていた。左端はネズミに齧られて失くなっていた。机のか細い脚は、N町の住民の家系や、この地方のわずかな土壌に生い育った系統樹について、知りうるあらゆる情報が書き込まれた煙草色の分厚いファイルの重みに耐えかねて、ふるえていた。

 一九二七年四月十五日の金曜日、イポリート・マトヴェーヴィチは普段どおり七時半に目を覚ますと、すぐに金のブリッジのついた昔風の鼻眼鏡を鼻にさした。いわゆる眼鏡をさしたことはなかった。かつて、鼻眼鏡は不衛生だと決めてかかり、眼鏡屋に行って、つるの部分に金メッキをした縁なし眼鏡を買ってきたことはあった。彼はひと目で眼鏡を気に入ったのだが、眼鏡をかけるとミリューコフ〔帝政ロシア期の立憲民主党の政治家〕にそっくりだと妻に言われ(彼女が死ぬ少し前のことだった)、眼鏡は門番の男にやってしまった。門番は近眼ではなかったが、眼鏡に慣れて、喜んでかけていた。

「ボンジュール!」寝具から足を下ろしながら、イポリート・マトヴェーヴィチは自分に向かって歌うように言った。〈ボンジュール〉は、彼が気分よく目覚めたことを示していた。目覚めの際に〈グーテン・モルゲン〉と言う場合、それはたいてい、肝臓の具合が悪く、五十二年の歳月が冗談では済まず、その日の天気がじめじめしていることを意味していた。




 イポリート・マトヴェーヴィチは、戦前に仕立てたズボンにやせた足をつっこみ、くるぶしのところを編み紐で結んでから、つま先が方形に狭まった柔らかいショートブーツに足を沈めた。五分もすると、彼は、細かな銀の星が散りばめられた月光色のベストと、光沢のあるラストリン地のジャケットに麗しく身を包んでいた。洗顔の後に残った水滴を銀髪から払い落とすと、口ひげを荒々しく動かし、ためらいがちに手でざらざらした顎を撫でて、短く刈り込んだアルミニウム色の髪にブラシを通してから、丁重な笑みを浮かべたまま、部屋に入ってきた姑、クラヴジヤ・イヴァーノヴナを出迎えた。

「エポレェート」と彼女は轟く声で言った。「今日わたしはいやな夢を見ました」

 「夢〔ソン〕」という単語はフランス語風に発音された。

 イポリート・マトヴェーヴィチは姑を上から見下ろした。彼の身長は百八十五センチで、すこしばかり姑を見くだすような態度をとるのにその高さは都合がよく、また容易くそうすることができた。クラヴジヤ・イヴァーノヴナは続けた。

「わたしが見たのはね、亡くなったマリーですよ、ほどいた髪のままで、金のベルトを巻いていたんですよ」

 クラヴジヤ・イヴァーノヴナの出す大砲のような声のせいで、鋳鉄製のランプが、芯や球面や、ほこりをかぶったガラスの装飾もろとも、ビリビリと震えた。

「ほんとうに、いやな予感がする。何も起こらないといいんだけれど」

 最後のほうの発声は、あまりに強く、イポリート・マトヴェーヴィチの髪の整えられた陣形が四方へと揺れ動いたほどだった。彼は顔にしわを寄せ、一語一語はっきりとこう言った。

「何も起こりませんよ、ママン。もう水道料金は払っていただけましたか?」

 払っていないことが明らかになった。オーバーシューズも洗ってくれていなかった。イポリート・マトヴェーヴィチは、この姑が好きではなかった。クラヴジヤ・イヴァーノヴナは愚かだった。そして高齢であることを考えると、この先賢くなる望みも持てなかった。ケチなことにかけては並外れており、ただイポリート・マトヴェーヴィチが窮乏しているがために、その締まり屋の感覚が発揮されずに済んでいた。彼女の声といったら、その叫びで馬を跪かせたという逸話で知られるリチャード獅子心王もうらやむほどの大きさと太さであった。その上、最も嫌なことに、クラヴジヤ・イヴァーノヴナは夢を見るのだった。絶えず夢を見ていた。彼女は、ベルトを巻いた少女たちや、竜騎兵の黄色い縁飾りを縫い付けた馬や、ハープを弾く屋敷番、警備隊が着る毛皮外套に身を包み、木槌を手に夜ごと見回りをする大天使たち、悲しげな音を出しながら部屋を飛びはねる編み棒を夢に見た。空っぽな老女、それがクラヴジヤ・イヴァーノヴナだった。この上さらに、鼻の下にはひげ剃りブラシにも似た口ひげを生やしていた。

 イポリート・マトヴェーヴィチは、軽い苛立ちを覚えながら家を出た。

 古びた工房の入り口のところに、ドアの枠にもたれて十字に腕を組み、棺桶職人ベゼンチュークが立っていた。商売の絶えざる失敗と、アルコールの長期服用のせいで、ベゼンチュークの目は猫のような明るい黄色で、そこには消えない炎が燃えていた。

「敬愛なるお客様!」遠くからイポリート・マトヴェーヴィチに目をとめ、彼は早口で叫んだ。「おはようございます!」

 イポリート・マトヴェーヴィチは、しみのついたラシャのつばつき帽を、礼儀正しくちょっと持ち上げてみせた。

「お義母さまの調子はどうです、お聞かせ願えませんか?」

「うん、む、む…」イポリート・マトヴェーヴィチはあいまいな返事をすると、平らな肩をすくめ、ゆっくりと通り過ぎた。

「ふう、健康なお義母さまに幸あれ!」いまいましそうにベゼンチュークは言った。「こっちは損するばかりだ、畜生!」

 そして再び、腕を胸元で十字に組み、ドアにもたれかかった。

 葬儀社〈妖精たち〉の門のところで、イポリート・マトヴェーヴィチは再び足止めされた。

 〈妖精たち〉の経営者は三人いた。三人はそろってイポリート・マトヴェーヴィチにお辞儀をし、声を合わせて姑の調子を問いただした。

「健康だ、健康だ」イポリート・マトヴェーヴィチは答えた。「どうしようもないね! 今日は、髪をほどいた金の娘を見たそうだ。そういう夢を見ていたらしい」

 三人の〈妖精たち〉は顔を見合わせると、大きなため息をついた。

 道中、こうした会話に付き合わされたため、イポリート・マトヴェーヴィチはいつになく遅れ、職場に着いたときには、〈用を済ませたら退出すべし〉というスローガンの上に掛けられた時計が九時五分を指していた。

 イポリート・マトヴェーヴィチは、背が高いことと、とりわけ口ひげを生やしていることによって、職場ではマチスト〔男性優位主義者〕とあだ名されていた。本物のマチストは、口ひげを生やさないものであるにもかかわらず。

 机の引き出しから青いフェルト製のクッションを取り出して椅子に置くと、イポリート・マトヴェーヴィチは口ひげを正しい位置(机と並行)にしてから、クッションの上に腰を下ろした。すると三人の同僚を少しばかり見下ろす格好になった。イポリート・マトヴェーヴィチが恐れていたのは痔ではなくズボンがすりきれることで、そのために青いフェルトを使っていたのだった。

 このソビエト職員のあらゆる挙動を、おずおずと目で追っていた若い男女がいた。綿入りのラシャ地のジャケットを着た男のほうは、オフィスの様子や、アリザリンインクの匂いや、ひっきりなしに重い息をつく時計に、完全に圧倒されていた。とりわけ〈用を済ませたら退出すべし〉という厳しい貼り紙に圧倒されていた。自分の用にはまだとりかかってもいないのに、彼はもう帰りたくなっていた。ここまで出向いたその用事は、イポリート・マトヴェーヴィチのような立派な銀髪の市民を煩わせるほど大したものではないという気がした。イポリート・マトヴェーヴィチのほうも、来庁者の用は大したものでも急ぎでもないのだと見てとって、二番のファイルを開くと、頬っぺたをぴくつかせ、書面に没頭しはじめた。きらきらする黒いモールで縁どりをした丈長の婦人用ジャケットを着た若い娘が、男と何ごとかを囁きあうと、恥ずかしさで上気しながら、イポリート・マトヴェーヴィチのほうへおずおずと近づいていった。

「同志、」と彼女は言った。「どこでしょう、その…」

 ジャケットを着た男は、喜ばしげに息をつくと、自分でも思いがけない大声を出した。

「婚姻は!」

 イポリート・マトヴェーヴィチは、手すりのあたりをじっと見つめた。その向こうに二人組が立っていた。

「出生ですか、死亡ですか?」

「婚姻です!」ジャケットを着た男は繰り返すと、うろたえて四方を見回した。

 若い娘はぷっと吹きだした。ことは順調に運んだ。イポリート・マトヴェーヴィチは手品師のような機敏さで仕事にとりかかった。老女のような筆跡で、新郎新婦の名前を厚い冊子に書き入れると、花嫁が慌てて外へ呼びに行った保証人たちの審査を厳正にとりおこない、四角いスタンプに念入りに息を吹きかけたあと、少し腰を浮かせて、それを当人たちのよれよれのパスポートに押した。新婚夫婦から二ルーブルを受け取って領収書を手渡すと、イポリート・マトヴェーヴィチはにやりとして「秘蹟遂行料ですな」と言った。そうして、その素晴らしい上背をぐっと伸ばして立ち上がった。いつもの癖で、胸を突き出す格好になった(昔彼はコルセットをつけていたのだ)。黄色い陽光がさんさんと降り注ぎ、彼の肩を肩章のように彩った。こうした彼の様子はいささか滑稽ではあったが、非常におごそかだった。鼻眼鏡の両凹ガラスは、サーチライトのような白い光を放った。若い夫婦は子羊のように立っていた。

「お若いかた!」と、イポリート・マトヴェーヴィチは気取った調子でこう述べた。「かつてのように、正式な結婚に対してお祝いを述べることをおゆるし願います! あなたたちのようなお若いかたがたが、手をとりあい、永遠の理想に向かって進んでいるのをお見受けして、とても、とても喜ばしい気持ちです! とても、とても喜ばしく思います!」

 この大演説を言い終えると、イポリート・マトヴェーヴィチは新婚夫婦の手を握り、腰を下ろして、自分にたいそう満足した様子で、ふたたび二番のファイルの書面を読む作業を続けた。

 隣の机では、職員たちがペンをインク壺に突っ込み、騒々しい音を立てていた。

 執務の一日が、おだやかに流れはじめた。死亡と婚姻の登記係を煩わす者はいなかった。窓からは、市民たちが春の冷気に身をちぢめながら、めいめいの家路に散らばっていく様子が見えた。正午きっかりに、協同組合〈鋤と鎚〉の雄鶏が鳴いたが、誰もそのことには驚かなかった。それから、ガーガー、ドッドッ…という金属的なモーター音が響き、グベルンスキー同志通りから、すみれ色をした濃い煙の塊がころがり出てきた。ドッドッ…という断続的な音が次第に大きくなった。ほどなく、煙の中から、執行委員会所有の車、ラジエーターは小さいが図体は大きいゴス一号の輪郭が現れた。車は、ぬかるみに足をとられながらスタロパンスカヤ広場を横切り、体を揺らしつつ毒々しい煙の中に消えた。職員たちは長らく窓辺に立ったまま、このできごとを解釈して、今後あるらしい人員削減との関係を取り沙汰した。しばらくすると、ぬかるみ避けの渡し木を用心深く渡っていく棺桶職人べゼンチュークの姿があった。彼は日がな一日町をうろついて、死んだ者がいないかを嗅ぎ回っているのだった。

 法で定められた三十分の昼食休憩の時間になった。よく通る咀嚼音が響きわたった。孫の出生を登録しにやってきた老女は、広場の真ん中へ追い出された。

 筆耕係のサペジュニコフが、誰にとってもおなじみの、狩にまつわる一連の話をくわしく語りはじめた。話の意義はすべて、狩のときにウォッカを飲むのは楽しいし、まして避けて通ることはできない、ということに収斂していくのだった。それ以上をこの筆耕係から引きだすことはできなかった。

「そうですか」とイポリート・マトヴェーヴィチは皮肉っぽく言った。「先ほど、その二本のポルブティールキ〔三百ミリリットル瓶〕を飲み干したと仰いましたが、それからは、どうなったのです?」
「それから? それは、今から言うところだったんだが、兎を大粒の散弾で仕留める必要があってだな… ああ、そうそう、そのことで俺と賭けをして、グリゴーリー・ワシーリエヴィチが負けて、珍品を出してきた… それで、俺たちはその珍品を飲み干して、さらにソートチク〔百グラムのウォッカ〕で喉を湿らせたのさ。そういうことだ」

 イポリート・マトヴェーヴィチは苛立って鼻を鳴らした。

「それでは、兎はどうなったんです? 大粒の散弾で仕留めたんですか?」

「待ってくれ、話の邪魔をしないでくれ。そこに荷馬車で近づいてきた奴がいた… ドンニコフだ、あのごろつきめ、荷馬車の藁の下に〈ガチョウ〉をまるごと隠してやがった… 四本のウォッカだ」

 サペジュニコフは薄い色の歯茎をむき出して笑った。

「四人で〈ガチョウ〉をまるごとやっつけてから、寝たよ… なんせ狩には、まだ空が白むくらいの時分に出なきゃならんからな。俺たちは朝に起きた。まだ暗くて、寒い。要するに、凍えて震えが止まらねえ… そのとき、俺の荷物からポルシーシキ〔ハーフボトル〕が出てきた。飲み干したさ。俺たちの感じでは… まだ足りない。ブルブル! 百姓女が、ドゥバツァートカ〔二十グラム〕持ってきた。あそこの村にはそういう魔法使いの女がいた、ウォッカを売ってるんだ…」

「いったい、狩はいつしたんです? 詮索してすみませんが!」

「そりゃそのとき狩もしたさ… グリゴーリー・ワシーリエヴィチに起きたことといったらな! 知っての通り、俺は吐いたりしたことはない… それどころか、気持ちをほぐすのに、もうひと瓶メルザーブチク〔小瓶〕を空けたくらいだ。そうしたら、ごろつきのドンニコフが、また荷馬車で出ていきやがった。お前ら待ってろ、って言うんだ。何かしら今から持ってくるから、ってな。それで持ってきたわけだ、当然な。ぜんぶソロコーフカ〔三一〇ミリリットル瓶〕だ… 他のは〈ハンマー〉屋に置いてなかったのさ。犬たちにも飲ませたよ…」

「だから狩は? 狩!」と全員が叫び出した。

「酔っ払った犬を連れて狩ができるか?」むっとしてサペジュニコフは言った。

「小僧っ子め…」とひっそり呟き、イポリート・マトヴェーヴィチは気分を害した様子で自分の机に向かった。

 これで、法で定められた三十分の昼食休憩は終わった。

 執務の一日が終わりつつあった。隣にある、白い装飾の入った黄色の鐘楼で、力いっぱい鐘を鳴らしはじめた。ガラスがびりびりと震えた。鐘楼からカラスがバラバラと落ちてきて、広場の上で少しばかり集会を開いたあと、すぐどこかへと姿を消した。日暮れた空が、がらんとした広場の上で凍てつきつつあった。

 事務所に、頬ひげを生やした赤毛の警官が入ってきた。制帽をかぶり、毛皮の襟のついた外套を身につけていた。脇のしたには、麻布で表紙をつけた、垢じみた小さな配達簿を大事そうに抱えていた。警官は、象のようなブーツを遠慮がちに鳴らしながらイポリート・マトヴェーヴィチのほうへやってくると、か細い手すりに胸を押しつけた。

「どうも、同志」配達簿から大きな書類を取り出しながら、野太い声で警官は言った。「署長同志からあなた宛に、ご好意で登記いただけないか、とのことです」

 書類は次のような内容だった。

 〈公用メモ。戸籍登録所あて。同志ヴォロビヤニノフ! お願いがある。たった今息子が生まれた。朝の三時十五分だ。ついては、行列は飛ばし、余計な引き延ばしもなしに、登記してもらいたい。息子の名はイワン、姓は私のだ。共産主義の挨拶を送る。警察署長代理、ペレルヴィン。〉

 イポリート・マトヴェーヴィチは急いで、余計な引き延ばしもなしに、また行列も飛ばして(というより、行列などこれまで一度もなかったが)、警察署の子を登記した。

 警官からは、まるで愛煙家だったピョートル大帝のような、きついタバコの匂いがした。繊細なイポリート・マトヴェーヴィチは、警官が退室してからようやく息が楽につけるようになった。

 イポリート・マトヴェーヴィチにも退出の時がきた。その日生まれる者は皆生まれ、ぶ厚い登記簿に書き込まれた。結婚を望む者は皆結婚し、これもまたぶ厚い登記簿に書き込まれた。ただ、棺桶屋たちの零落が明らかなように、死にまつわるできごとだけが一件もなかった。イポリート・マトヴェーヴィチは、書類を片付けると、引き出しにフェルト製のクッションをしまい、小さな櫛で口ひげをときほぐした。そして、熱々のスープを夢想しながら、退出しようとしていたところに、事務所の扉がバタンと開いて、その戸口に棺桶職人ベゼンチュークが姿をあらわした。

「敬愛なるお客様!」とイポリート・マトヴェーヴィチは微笑んで言った。「何用ですかな?」

 職人の粗野な面つきは、夕闇の中でも光っていたが、彼はひと言も発することができないでいた。

「どうした?」イポリート・マトヴェーヴィチは、語気をやや強めてたずねた。

「〈妖精たち〉ときたら… 畜生め、あれで商売ができますか?」棺桶職人は聞き取りにくい声で言った。「あいつらの商品が買い手を満足させられますか? 棺桶ってのは、とにかく木材をくうもんでしてね…」

「何だって?」イポリート・マトヴェーヴィチはたずねた。

「そう、あの〈妖精たち〉ね… 三つの家族を、ひとつの小商いで養ってるんです。あそこの材料はちゃんとしちゃいないし、装飾もまずいし、畜生め、房飾りもひょろひょろなんですよ。うちはね、古いんです。創立は一九〇七年でしてね。うちの棺桶は、生きがよくて、選り抜きの、愛好家ごのみのやつなんですよ…」

「どうしたんだ、頭がおかしくなったか?」イポリート・マトヴェーヴィチは穏やかにそう聞くと、出口に向かった。「棺桶に囲まれて頭がぼうっとしてるのか」

 ベゼンチュークは、気をきかせてドアを押し開けると、イポリート・マトヴェーヴィチを先に通し、自分はその後にぴったりとついていった。辛抱できないとでもいうふうに体を震わせていた。

「まだ〈ようこそいらっしゃいませ〉があった時分は、まともでしたよ! あそこの金襴銀襴にかなうようなところは、トヴェリにすらなかったんだ、畜生め。それが今じゃ、はっきり言いますがね、うちの商品より良いのはありませんよ。探すまでもない」

 イポリート・マトヴェーヴィチはかっとなって振り向き、怒りを込めて一瞬ベゼンチュークを睨みつけてから、すこしばかり歩調を早めて歩きだした。本日の勤務で不快なことは何も起きなかったとはいえ、じゅうぶん嫌な気持ちになっていた。

 〈妖精たち〉の工房には、三人の経営者が、イポリート・マトヴェーヴィチが朝そこで別れたときと同じポーズで立っていた。あれ以来、彼らはお互いに口をきいた様子もなかったが、顔にはあきらかな変化が見られ、秘めた喜びがその目の中に気だるげにちらつくさまは、彼らがなにかしら重大なことを知ったことを示していた。

 商売敵を目にしたベゼンチュークは、必死になって片手を振り回し、立ち止まってヴォロビヤニノフに耳打ちした。

「三十二ルーブルにおまけします」

 イポリート・マトヴェーヴィチは顔をしかめて足を早めた。

「掛け売りでもいいです」とベゼンチュークは言いたした。

 〈妖精たち〉の三人のほうは何もしゃべらなかった。黙ったままヴォロビヤニノフを追って駆けてきて、その間、絶えまなくハンチング帽をとっては、礼儀正しいお辞儀を繰り返した。

 棺桶屋たちの愚かしいつきまといにすっかり腹を立てたイポリート・マトヴェーヴィチは、いつもより素早く玄関ポーチに駆け上がり、段差のところでいらいらとブーツについた泥をこすり落とすと、これまでにない強い食欲がせり上がってくるのを感じながら住処へと入っていった。彼を出迎えるように部屋から出てきたのは、のぼせ上がった様子のフローラ・ラウラ教会のフョードル司祭だった。右手で聖衣をたくし上げ、イポリート・マトヴェーヴィチには目もくれないで、フョードル神父は出口へ突進していった。





 ここにきてイポリート・マトヴェーヴィチは、室内が過剰なほどに掃除され、数少ない家具があきらかにいつもと違う配置に並べ替えられているのに目を留め、強い薬品臭が鼻をくすぐるのを感じた。手前の部屋で、イポリート・マトヴェーヴィチは、隣人の農業技師夫人クズネツォワに出くわした。彼女はこう囁くと、両手を振り回した。

「お加減が悪いんですよ、ちょうど懺悔を済まされたところです。ブーツの音を立てないでくださいね」

「立てませんよ」と大人しくイポリート・マトヴェーヴィチは返事をした。「いったい何があったんです?」

 クズネツォワ夫人は唇を引き結び、手で奥の部屋の扉を指した。

「強度の心臓発作です」

 そして、明らかに誰か別の人の言葉を、その重々しさゆえに気に入って繰り返しながら、こうつけ加えた。

「お亡くなりになる可能性も排除できません。今日は私、一日中立ち通しでしたよ。朝、挽肉機をお借りしようとこちらに来たんですけど、こう見ますと、ドアは開けっぱなしで、台所には誰もいない、この部屋にも誰もいないんです。それで私、思ったんですよ、クラヴジヤ・イヴァーノヴナは、クリーチ〔復活祭用のケーキ〕を作る小麦粉を買いに出かけたんだなって。彼女は近いうちにそうするつもりでしたしね。ご存知でしょうけど、いま小麦粉は早めに買っておきませんとね…」

 クズネツォワ夫人は、小麦粉のことや、物価の高騰のことや、タイル張りの暖炉のそばに瀕死の状態で横たわっていたクラヴジヤ・イヴァーノヴナを発見したときの様子について、もっとたくさん話したそうではあった。しかし、隣の部屋から響いてきたうめき声が、イポリート・マトヴェーヴィチの耳を突き刺した。彼は、かすかに痺れた手でさっと十字を切ると、姑のいる部屋へと入っていった。


(あるいは江川卓訳『十二の椅子』を読もう!)
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▷底本:Ильф И. и Петров Е. Двенадцать стульев. Авторская редакция. М.:Текст. 2016. С.9-19.
▷翻訳:Ayako Kagotani
▷図版:雑誌掲載(1928年)当時のM. チェレムニフによる挿絵。パブリックドメインの文学作品を扱う電子図書館サイトtraumlibrary.ruからリンク参照。
▷訳出にあたっては、先行訳( Ilya Ilf and Evgeny Petrov, The Twelve Chairs: A Novel, trans. Anne O. Fisher, Illinois: Northwestern University Press, 2011、イリフ=ペトロフ『十二の椅子』江川卓訳、筑摩書房、1961年)を適宜参照した。

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