長編『十二の椅子』(1928年)第2章 翻訳
▷文中の〔〕は訳注、または読みがな。
第2章 マダム・ペトゥホワの最期
クラヴジヤ・イヴァーノヴナは、仰向けに寝て、片手を頭の下に差し込んでいた。頭には、濃いアプリコット色のナイトキャップをかぶっていた。こうしたナイトキャップは、ご婦人がたがマーメイドラインのスカートを身につけて、アルゼンチン・タンゴを踊り始めたばかりの頃に流行したものであった。
クラヴジヤ・イヴァーノヴナの顔つきは厳かではあったが、のっぺりとして何の表情もなかった。目は天井を見つめていた。
「クラヴジヤ・イヴァーノヴナ!」とイポリート・マトヴェーヴィチは呼びかけた。
姑は唇を小刻みにふるわせたが、イポリート・マトヴェーヴィチの耳には、耳慣れたトランペットのようなけたたましい音の代わりに小さなか細いうめき声が聞こえ、哀れをそそられた彼の心臓はぎゅっと締めつけられた。思いがけずキラキラした涙が目からあふれ、あたかも水銀のように頬を滑っていった。
「クラヴジヤ・イヴァーノヴナ、」とヴォロビヤニノフは繰り返した。「どうなさったのです?」
しかしまたしても答えは得られなかった。老女は目を閉じ、かすかに体を動かして脇を向いた。
農業技師夫人が静かに入ってきて、子どもを手洗いに連れていくような手つきでヴォロビヤニノフの手をとり、彼を部屋から連れ出した。
「眠られたんですよ。お医者さんが、安静にさせなくちゃいけないって。ね、いいこと、薬局へ行ってきてくださいな。これが処方箋です、それと、氷嚢がいくらするか、教えてくださいね」
この手のことは間違いなくクズネツォワ夫人のほうが上手だと感じたイポリート・マトヴェーヴィチは、夫人に全面的にしたがうことにした。
薬局まで走っていくには遠かった。処方箋をギムナジウム式にこぶしの中に握りしめると、イポリート・マトヴェーヴィチは急ぎ足で表へ出た。
もうほとんど暗くなっていた。尽きかけた夕陽を背景に、エゾマツの門にもたれかかって、パンと玉ねぎを噛みとっている棺桶職人のベゼンチュークのか細い姿が見えた。その隣には三人の〈妖精〔ニンフ〕たち〉が座って、匙を舐めつつ、鋳鉄製の壺からソバ粥を食べていた。イポリート・マトヴェーヴィチを目にすると、棺桶屋たちは兵士さながらに直立した。ベゼンチュークは憤然と肩をすくめ、ライバルたちのほうへ手を伸ばして、ぶつぶつ言った。
「うろちょろしやがって、畜生め」
スタロパンスカヤ広場の真ん中に、「詩は、大地の聖なる夢に宿る神である」と台座に彫りこまれたジュコフスキーの小さな胸像があり、そのたもとで、クラヴジヤ・イヴァーノヴナが重篤だという知らせを受けて活発な議論が行われていた。住民たちのおおかたの意見は、「みんないつかはあの世へ行くものだ」と、「神は与えたまい、奪いたもう」の二つに集約された。
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| ジュコフスキーの胸像(サンクトペテルブルク) |
〈ピエールとコンスタンチン〉の理髪師でありながら、アンドレイ・イワーノヴィチと呼ばれて喜んで返事をする男が、ここぞとばかりにモスクワの雑誌〈アガニョーク〉で仕入れた医療知識をひけらかしていた。彼が言うには、
「現代の科学に不可能はない。例えばな、客の顎にニキビができてたとしたらだ。今までは血液感染を起こしてしまうこともあったが、今のモスクワじゃ、…まあ本当か嘘か分からんが、客ひとりひとりに個別の滅菌したひげ剃りブラシを用意しなけりゃならんそうだ」
市民たちは、長いため息をついた。
「そりゃお前、アンドレイ、ちょっと話が大げさだろうよ…」
「人それぞれに個別のひげ剃りブラシだなんて、そんなことあるか? つくり話さ!」
かつては知的労働に従事していた賃金労働者〔プロレタリアート〕で、いまは露天商をやっているプルーシスなどは、興奮してこう言った。
「待ってくれ、アンドレイ・イワーノヴィチ、最新の人口統計によると、モスクワには二百万人以上住んでるんだ。するとつまりは、二百万本以上のひげ剃りブラシが要るということになるぞ? えらく妙な話じゃないか」
議論は白熱していた。オスィプナヤ通りの端にイポリート・マトヴェーヴィチが姿を見せなければ、議論の方向を見失ってしまうところであった。
「また薬局へ走ってくぞ。よくないってことだ」
「こりゃ婆さん死ぬな。さもなきゃ、ベゼンチュークが浮き足だって走り回ったりしないだろうよ」
「だけども、医者は何て言ってるんだ?」
「何が医者だよ! 社会保険局に医者がいるもんか。健康なやつを診て悪化させるような奴らだぞ!」
医療関係の話をしたくてずっと我慢していた〈ピエールとコンスタンチン〉が、周りをおそるおそる見まわしてから口火を切った。
「今じゃ、肝心かなめはヘモグロビンだと」
こう言うと、〈ピエールとコンスタンチン〉は口をつぐんだ。
住民たちのほうもふっと黙って、めいめいに、ヘモグロビンの神秘的な力に想いをはせた。
月がのぼり、その薄荷色〔はっかいろ〕の光がジュコフスキーのミニチュア像を照らしだすと、銅像の背にチョークで短く書かれた罵詈雑言が、はっきりと読み取れるようになった。
こうした落書きは、一八九七年六月十五日の夜、すなわちこの記念像の除幕式の直後には出現していた。帝政時代の警察と、のちにはソビエトの警察が、いかに奮闘しようとも、誹謗の落書きは毎日律儀に復活しているのだった。
よろい戸を下ろした木造りの家々で、サモワールが歌うような音をたてて沸いていた。夕餉の時間だった。市民たちは、時間を無駄にすまいと散会した。風が出てきた。
一方そのころ、クラヴジヤ・イヴァーノヴナは死に瀕していた。彼女は、飲みものを欲しがったり、起きて、修理に出してあるイポリート・マトヴェーヴィチの礼装用編み上げ靴を取りに行かなくてはと繰り返したり、ほこりのせいで息がしにくいと不平をこぼしたり、家中の明かりを点けてもらいたがったりした。
イポリート・マトヴェーヴィチは、心配するのにもいよいよ疲れてきて、部屋の中を行ったり来たりしていた。嬉しくもない家政上の問題で頭がいっぱいだった。共済組合で前払い金を借りてこなくてはいけないし、神父を呼びにも行かなくちゃならない、それに、親戚からのお悔やみの手紙にも返事をしなければ、と彼は考えた。少し気持ちを晴らすつもりで、イポリート・マトヴェーヴィチは玄関ポーチへ出た。緑色の月光に照らされて、棺桶職人ベゼンチュークが立っていた。
「それでどうされますか、ヴォロビヤニノフさん?」帽子を胸に押しあて、職人がたずねた。
「なに、まあいいんじゃないかね…」イポリート・マトヴェーヴィチは陰気に答えた。
「だけど〈妖精〔ニンフ〕たち〉ときたら… 畜生め、あれで商売ができますか!」興奮してベゼンチュークが言った。
「どこかへ行ってくれ。もううんざりだ!」
「かまいやしません。房飾りと金襴銀襴についてですがね。どうしますか、畜生め… 一級品にしますか? それとも別の?」
「房飾りも金襴銀襴もいらない。ただの木製の棺でいい。松のな。わかったか?」
すべて理解したという印に、べゼンチュークは一本指を唇に押しあて、身をひるがえすと、帽子でバランスをとりつつも絶えずよろめきながら、自分の家へと帰っていった。そこでようやく、イポリート・マトヴェーヴィチは、この棺桶職人が死ぬほど酔っているのに気がついた。
イポリート・マトヴェーヴィチの心は、ふたたび異様なほどの忌々しさに捉われた。誰もいないゴミだらけの部屋に帰っていくことなど想像もできなかった。姑が死ねば、革命後に彼が苦労して築きあげてきたささやかな快適さや習慣が消え失せてしまうような気がした。彼の大いなる快適さと広範囲に渡る習慣とは、すでに革命で奪い去られていた。(結婚するべきだろうか?)と、イポリート・マトヴェーヴィチは考えた。(でも誰と? 警察署長の姪か? プルーシスの妹の、ワルワーラ・ステパノヴナか? それとも、家事手伝いの女を雇おうか? いやいや、とんでもない! 裁判にひっぱり回されることになる。高くつくしな)
イポリート・マトヴェーヴィチの目に、人生は一挙に暗転して見えた。この世のすべてに対する憤怒と嫌悪に満たされて、彼はふたたび家の中へと戻った。
クラヴジヤ・イヴァーノヴナは、もううわ言を言っていなかった。枕を高くして横になり、部屋に入ってきたイポリート・マトヴェーヴィチを見ていた彼女は、完全に意識がはっきりしていて、厳格なふうにすら見えた。
「イポリート、」小さいながらもよく聞き取れる声で彼女は囁いた。「そばにお座りなさい。話さなきゃならないことがあります…」
イポリート・マトヴェーヴィチは、口ひげの生えた姑の少し痩せた顔を見つめながら、しぶしぶ腰を下ろした。彼は、笑みを浮かべて何か励ましの言葉を言おうとした。しかし、笑みはこわばり、励ましの言葉は何ひとつでてこなかった。イポリート・マトヴェーヴィチの喉からは、ひきつってかすれた音が漏れただけであった。
「イポリート、」と姑は繰り返した。「うちに、応接家具が一式あったのを覚えていますか?」
「どれです?」イポリート・マトヴェーヴィチは、重病人に対してだけ可能な、やさしい物腰でたずねた。
「あの… イギリス更紗を張った…」
「ああ、我が家にあったあれですね?」
「そう、スタルゴロドの家の…」
「覚えてますよ、よく覚えてますとも… ソファに、椅子が十二脚、六本脚の小さな円テーブル。素晴らしい出来の、ギャンブス製の家具でしたね… でも、どうしてそれを思い出したんです?」
しかし、クラヴジヤ・イヴァーノヴナは返答ができなかった。顔がゆっくりと土気色に覆われていった。なぜか、イポリート・マトヴェーヴィチの息も止まりそうになった。彼は、かつての自邸にあった客間を鮮明に思い出した。左右対称に並べられたクルミ材の猫足つき家具、磨き上げられた蠟引きの床、古めかしい焦茶色のグランドピアノ、そして、高官だった親族たちの銀板写真を収めた楕円形の小さな黒い額縁が壁にかけられていたことを。
そこでクラヴジヤ・イヴァーノヴナが、無機質で無感情な声を出した。
「椅子の座面に、自分のダイヤモンドを縫いつけました」
イポリート・マトヴェーヴィチは、老いた姑を横目で見た。
「どのダイヤモンドですか?」と機械的にたずねたあと、ふいに彼は思い出した。「ダイヤモンドは、家宅捜索されたときに持ち去られたはずでは?」
「ダイヤモンドを椅子の中に隠しました」老女は頑なに繰り返した。
イポリート・マトヴェーヴィチはさっと立ち上がると、ケロシンランプに照らされた姑の石のような顔を見つめ、彼女がうわごとを言っているのではないことを理解した。
「お義母さんのダイヤモンドが!」自分でも驚くような力強さで彼は叫んだ。「椅子の中にですって! 誰が入れ知恵したんですか? どうして私にくださらなかったんです!」
「どうしてあなたにあげられますか、娘の財産を使い果たすような人に?」静かに、悪意を込めて老女は言った。
イポリート・マトヴェーヴィチは腰を下ろし、そのとたんにまた立ち上がった。心臓がどくどくと音をたて、大量の血液を全身に送りだしていた。頭がズキズキと痛みはじめた。
「でも、そこから取り出したんでしょう? ダイヤモンドはここにあるんでしょう?」
老女は頭を振って否定した。
「間に合わなかったのよ。覚えているでしょう、あれがどんなに急なできごとで、急いで逃げなきゃならなかったか。ダイヤモンドは、テラコッタランプと暖炉の間に置いてあった椅子の中に残してきました」
「しかし、それじゃあ狂気の沙汰ですよ! まったく親娘でそっくりですね!」イポリート・マトヴェーヴィチは声を荒げた。
そうして、もはや臨終の床にある人のそばにいることなどどうでもよくなって、大きな音を立てて椅子を引くと、部屋を小きざみに歩きまわり始めた。老女のほうは、無関心な様子で彼の動きを追っていた。
「しかし、あの椅子がどうなってしまうか、想像くらいできるでしょう? それとも、あなたがご自分の、お、王冠を取りに戻るまで、あの家の客間でおとなしく待っていてくれるかも、だなんてお思いですか?」
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| ギャンブス製の椅子 |
老女は何も答えなかった。
怒りのあまり、戸籍登録所の事務員の鼻から鼻眼鏡〔ペンスネ〕がずり落ち、その金色の蔓が彼の膝の辺りでまたたいて、床にぱたっと落ちた。
「何てことだ! 椅子の中に七万ルーブルのダイヤモンドを隠すだなんて! 誰が座っているかもわからない椅子の中に!…」
クラヴジヤ・イヴァーノヴナはすすり泣き、ベッドの脇にくずおれた。その手が、イポリート・マトヴェーヴィチをつかもうとして半円を描いたが、次の瞬間、すみれ色のキルティング毛布の上に、ぱたりと落ちた。
イポリート・マトヴェーヴィチは恐怖に襲われて金切り声を出し、隣家へと飛び込んだ。
「危篤のようです!」
農業技師夫人は手際よく十字を切ると、好奇心を隠しもせず、ひげ面の農業技師の夫と連れ立ってイポリート・マトヴェーヴィチの部屋へと駆け込んでいった。ヴォロビヤニノフ自身は、呆然としたまま市民公園へとさまよい出た。
農業技師夫妻とその小間使いとが、故人の部屋を片付けている間、イポリート・マトヴェーヴィチは公園をさまよい歩いて、ベンチにぶつかったり、早春の愛に凍えている恋人たちを灌木と見間違えたりしていた。
彼の頭の中では、とんでもないことが起きていた。ロマの人々の合唱が鳴り響き、胸を高く盛った女性オーケストラが、『タンゴ・アマパ』をひっきりなしに演奏しているのだった。彼には、モスクワの冬景色が見えていた。通行人たちをあざ笑うようにいなないて駆けていく、立派な体格の黒い駿馬も。たくさんのものが、イポリート・マトヴェーヴィチの目に映った。オレンジ色の、うっとりするような高級ズボン下や、従僕の献身や、あり得たカンヌへの小旅行…。
歩みがしだいに遅くなったところで、イポリート・マトヴェーヴィチはふいに棺桶職人ベゼンチュークの体につまづいた。職人は毛皮外套を着て、公園の小道をさえぎって寝ていたのだった。小突かれて彼は目を覚まし、くしゃみをするとパッと起き上がった。
「お手間はおかけしませんから、ヴォロビヤニノフさん」彼はついさきほど始まった会話を続けているかのように、勢いこんで言った。「棺桶ってのは、ちゃんとした仕事が大事でしてね」
「クラヴジヤ・イヴァーノヴナは亡くなったよ」と、棺桶の注文主は告げた。
「ああ、天に安らわせたまえ」ベゼンチュークは同調して言った。「つまりは、お亡くなりになったってことですね、おばあさまが… おばあさん方というのは、いつも、お亡くなりになるもんです… あるいは、息をひきとる… これは、どんなおばあさんかによりますがね。例えば、お義母さまみたいな小柄な方だと、まあ、『お亡くなりになった』ですね。もっと大柄な人だとか、すこし痩せた人だと『息をひきとる』となりますがね…」
「そうなのか? 誰がそんなふうに決めているのかね?」
「職人の、仲間内での話ですよ。そう、あなたのような、痩せてはいても立派で背も高い方が、まあ、もし仮に亡くなったとしたらですね、そのときは『逝っちまった』ですね。商人組合に入っていたような商売人のときは『あの世行き』です。大した身分でもないような、掃除番や、百姓の誰かなら、『おっ死んだ』だとか『のたれ死んだ』とかですね。だけども、鉄道の車掌とか、上役の誰かみたいな、一番勢いのある人たちが死ぬと『こときれた』になります。『うちのお偉いさん、こときれたらしいぞ』って感じですね」
人間の死に対するこうした奇妙な分類法に驚いたイポリート・マトヴェーヴィチは、次のようにたずねた。
「それじゃあ、お前さんが死んだとき、職人たちは何て言うんだね?」
「私なんぞ、ちっぽけな人間です。『ベゼンチュークはもういけねえ』でしょう。それ以上はありませんよ」と言ってから、きびしい調子でつけ足した。「私なんかに『こときれた』とか『逝っちまった』とか言うことはありえません。貧弱な体つきですから… ともあれ、棺桶はどうなさるんです、ヴォロビヤニノフさん? ほんとに、房飾りも金襴銀襴もつけないんで?」
しかし、イポリート・マトヴェーヴィチは再び目もくらむような夢の中へと沈んでしまい、返事もせずに歩きはじめた。ベゼンチュークは、指で何かを数えつつ、またいつものように何かをつぶやきながら、その後を追った。
月は、とうの昔に姿を消していた。冬のように冷えこんでいた。水たまりには、再びウエハースのように脆い氷が張った。二人が連れ立って出たグベルンスキー同志通りでは、風が看板と格闘していた。シャッターの閉まる音が響くスタロパンスカヤ広場の方から、消防士の隊列が痩せ馬に引かれて出てきた。
消防士たちは帆布に包まれた足を荷台から垂らし、ヘルメットをかぶった頭を揺らしながら、わざと不快な声を出して歌っていた。
親愛なるナソーソフ同志に栄光あーれー!…
「消防隊長の息子のコーリカの結婚式で、練り歩いてるんですよ」と、ベゼンチュークは関心がなさそうに言って、外套の下の胸を掻いた。「それで、ほんとに金襴銀襴も何もなしでやるんですかい?」
まさに、イポリート・マトヴェーヴィチの覚悟が決まったところであった。(行こう。)彼は決心した。(見つけるんだ。追い追いゆっくり考えればいい。)ダイヤモンドの夢を通して見れば、亡き姑すら、実際よりも愛しく感じられた。彼はベゼンチュークに向き直った。
「どうとでもなれ! いいだろう! 金襴緞子のやつだ! 房飾りも付けてな!」
▷底本:Ильф И. и Петров Е. Двенадцать стульев. Авторская редакция. М.:Текст. 2016. С.19-26.


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