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2022年7月までの記事まとめ

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時事コラム『劇場の話』コメンタリー:戯曲『33の失神』とメイエルホリド

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『劇場の話』(1935年)とは メイエルホリド演出の戯曲『33の失神』にまつわる時事コラム。『プラウダ』に掲載された。( 当サイトによる全訳 ) 戯曲『33の失神』とは チェーホフの書いたヴォードヴィル『創立記念祭』『熊』『結婚申込』をオムニバス形式にまとめた演劇作品で、チェーホフ生誕75周年を記念して、1935年3月25日に初演された。(なお、『劇場の話』で言及されているのは、初演から2週間後の4月8日のこと) 『33の失神』を演出したメイエルホリドとは モスクワ芸術座の俳優としてキャリアをスタートし、芸術座を退団してから演出へと転向して、つぎつぎと斬新な作品を発表しロシア内外の注目を集めた演出家。とくに革命前後の1910年代から1920年代にかけて、華々しく活躍した。 メイエルホリド …当時いかにメイエルホリドの名声が高かったか、その一端をわれわれは一時期メイエルホリドの私設秘書を務めたアレクサンドル・グラトコフの回想からうかがうことができる。それによると、 「メイエルホリドの名を知らぬ者はいなかった。劇場に一度も足を運んだことのない者にすらその名は知れ渡っていた」という。(『メイエルホリド・ベストセレクション』377ページ) 1930年代のメイエルホリドは、新しい演出を試すことよりも、これまで試みた手法を定着させ、完成度を高めることを目指していたようで、そのことによって目新しさが減じたのか、『33の失神』が上演された1935年ごろには、その名声は下降ぎみだった。 『33の失神』という作品自体も、その凝った(凝りすぎた)演出が観客に受けず、失敗作だと評されていた。 しかしそれは状況を俯瞰的にみたばあいの話であって、もう少し虫眼鏡的な視点でみれば、『劇場の話』にあるとおり、1935年当時もメイエルホリド劇場には人々がつめかけていたし、その中には海外からやってきた観客もいた。 イギリスの演出家ゴードン・クレイグは1935年にモスクワを訪れてメイエルホリドの舞台を観たひとりで(『33の失神』を観たかどうかはわかりません)、つぎのようなコメントを残している。 「できることなら私はもう一度ロシアに出かけて、メイエルホリドの仕事をつぶさに見てみたいと思う。…もしモスクワに行けたなら、文字通り悦んで数週間ものあいだ客席に自分を縛り付け、メイエルホリド劇場のリハーサルや芝居を見...

時事コラム『劇場の話』(1935年)全訳

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▷緑字は末尾に注あり。 _______  劇場へ出かけようとしている人間の心持ちは、複雑ではないが、とても愉快なものである。午前の勤務中、仕事のあいまに、さも大ごとであるかのようにこう言ったりする。 「今日は劇場にいくんだよ、だから、今晩の 文化攻略イベント には、参加できないと思う」  家に帰ると、彼の耳には、隣の部屋の妻が誰かにむかって電話口でこんなふうに話しているのが聞こえてきて、気持ちをくすぐる。 「残念ですけど、今晩、パヴリックと私は家にいないんですよ。パヴリックとメイエルホリド劇場に行くんです。いいえ、とんでもない、真ん中の五列目なんですよ。わたしたち、五列目より後ろには座ったことがないんです」  パヴリックには、妻が嘘をついたことがわかっている。もっと後ろのほうの席に座ることなどしょっちゅうだし、今回五列目を買ったのは、単に、もっと安い席がもうなかったからで、しかし、わかっているとはいえ妻の言葉は耳に心地がよい。結局のところ、誇らしい感覚というのはわれわれ同時代人に無縁のものではない。  五歳になる娘でさえも、中庭で遊んでいた女の子たちにむかって、バルコニーから、 「パパとママはね、きょう『三つの失神』に行くの」と甲高い声で叫んでいる。 「『三十三の』、だよ」やせぎすのパヴリックが、誇らしさから身をふくらませながら訂正する。「何度も言ったじゃないか!」  この日はふだんより早めに食事をとる。急がなくてはならない、なぜなら、第三のベルのあとでは、観客ホールへ入場できなくなってしまうからだ。観客ホール、第三のベル、リベレット 〔パンフレットのあらすじ〕 、非常口、チケットの売り子… 概して、こうしたすべての言葉は驚くほどこころよい。 身じたくは公演の二時間前に始める。と、ここで当然のように、カフスボタンが落ちてどこへ行ったやらわからなくなっており、襟には下手なアイロンのせいで小ジワがよっていて、双眼鏡はヴラーソフ一家が持っていったままもうひと月も返ってきていない、ということが判明する。これでは単なる無作法者で、受けられる恩恵も受けられない。最終的には、すべてに片がつく。カフスボタンは見つけだされ、襟にはアイロンがあて直され、双眼鏡はまったく必要がなくなる、座席は五列目なのだから、そこからはなにもかもが素晴らしくよく見えるのだ。  ところが最後の瞬間になって...

雑誌『30日』と、イリフ&ペトロフ掲載作

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▷イリフ&ペトロフの作品を掲載誌別に時系列で整理 ▼雑誌『30日』とは 1925年から1941年までモスクワで発行されていた月刊文芸誌。 イリフ&ペトロフの代表作『十二の椅子』と『黄金の仔牛』はこの雑誌に掲載された。 『十二の椅子』が掲載されたときの編集長はレギーニンという人物。 『30日』1934年 No.10の表紙 ▼雑誌『30日』掲載のイリフ&ペトロフ作品 (末尾の№=雑誌の号数) 1928年 『十二の椅子』Двенадцать стульев (№ 1—7) 『モスクワ、その夜明けから日没』Москва от зари до зари (№ 11)  *イリフ単独作 『ピューリタンとドラム奏者』Пуритане и барабанщики (№ 12)  *イリフ単独作、全集未収録 『褐色の町』Коричневый город (№ 12)  *ペトロフ単独作、全集未収録 1929年 『討論は人生を彩る』 Диспуты украшают жизнь (№ 3)  *イリフ単独作 『戸籍登録員の過去』Прошлое регистратора загса (№ 10) 1930年 『気をつけろ!ずっと風に煽られるぞ!』Осторожно! Овеяно веками! (№ 6)  *全集未収録 1931年 『黄金の仔牛』Золотой теленок (№ 1—7, 9—12) 1933年 『強い感情』Сильное чувство (№ 5) 『あふれんばかりの幸福のために』Для полноты счастья (№ 6) ▼参考文献・サイト Ильф И., Петров Е. Собрание сочинений в 5 томах. М. 1961 Паустовский К. Г. Собрание сочинений в восеми томах. Т.5. М. 1968. С.91-99 Произведения Ильфа и Петрова https://fantlab.ru/work1001680 ▼画像出典 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/%D0%9E%D0%B1%D0%BB%D0%BE%D0%B6%D0%B...