作家ペトロフの最期の日々(1942年7月)
▷同時代人による回想を抜粋・訳出(エレンブルグの回想は木村浩訳を抜粋・引用)。
▷文中の〔〕はブログ注。
イリヤ・エレンブルグによる回想(1962年)
…エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕にとっては、イリフの死は大きな打撃であった。最大の親友を亡くしたことが悲しかったばかりではない。イリフペトロフと呼ばれていた作家は死んでしまったことが、彼にはわかっていたからである。一九四〇年、久方ぶりで会った時、ペトロフは、彼にしては珍しく滅入った様子でいった−−「私は何もかも最初からやり始めなければなりません…」
彼はどんな作品を書いたことだろう? ちょっと察しがつかない。彼は偉大な才能と独特な精神的風貌とを持っていた。が、彼は自分の力量を示すことができなかった。戦争が始ったのだ。
彼は縁の下の力持ち的仕事を遂行していた。海外での情報宣伝活動に従事していたソヴィエト情報局の総裁はS・A・ロゾフスキイであった。
わが国の情勢は多難で、多くの同盟国はわが国を見限ろうとしていた。アメリカ国民に真実を語る必要があった。ロゾフスキイは、わが国の作家やジャーナリスト中には、アメリカ人の心理を理解し、彼らのために引用や紋切型の文句を使わずに物の書ける者が少ないことを知っていた。こうして、ペトロフは大通信社ナナ(ヘミングウェイをスペインに派遣した通信社)の従軍記者となった。エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕は、勇敢に、辛抱強く、この仕事を遂行していった。彼はまた、『イズベスチヤ』と、『赤い星』にも記事を書送っていた。
私たちはホテル「モスクワ」に住んでいた。戦時下での最初の冬だった。二月五日、灯が消え、エレベーターが止った。ちょうどその夜、エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕は爆風による打撲傷を負ってスヒーニチの戦闘から戻ってきた。彼は同行の人たちに自分の体の具合をかくして言わなかったが、やっと階段を十階まで這い上がるや倒れてしまった。私は二日目に彼を訪れた。彼は物を言うのも大儀そうだった。医者が呼ばれた。だが、彼は寝たまま戦闘の記事を書いていた。
一九四二年六月、形勢すこぶる憂鬱な頃、私たちは同じホテルに住むK・A・ウマンスキイの部屋にいた。I・S・イサコフ海軍大将がやってきた。ペトロフは、包囲下にあるセヴァストーポリへ何とかして自分をやってくれと頼みはじめた。イワン・ステパーノヴィチ〔イサコフ海軍大将〕は相手にそのような無謀な計画を思い止らせようとした。ペトロフはきかなかった。数日後、彼はセヴァストーポリに潜入した。そこで彼は敵の猛爆に会った。彼は駆逐艦「タシケント」に乗って帰ってきたが、途中ドイツ軍の爆弾が軍艦に命中した。多くの犠牲者が出た。ペトロフはノヴォロシイスクまで辿り着いた。そこで彼は自動車に乗った。事故がおこったが、またしてもエヴゲーニイ・ペトロヴィッチ〔ペトロフ〕は無事だった。彼はセヴァストーポリ戦記を書きはじめ、早くモスクワに着きたいと急いでいた。飛行機は低空を飛び(当時戦線に近い地帯ではどの飛行機もそうだった)小山の山頂に衝突した。死は長いことペトロフを追いまわしたあげく、遂に彼に追いついたのだった。…
▷エレンブルグ『わが回想 人間・歳月・生活 4』木村浩、朝日新聞社、1965年からの一部抜粋。
コンスタンチン・シーモノフによる回想(1963年)
…ペトロフは、人びとのささいなことにもよく気のつく人だった。北方を出立する直前、我々は潜水艦艦隊の基地にいた。一隻の〈マリュートカ〉が、成功はしたが困難を極めた航海からちょうど戻ってきたところだった。およそ三百発もの爆雷が至近距離で炸裂し、その船体には数十ヶ所に及ぶ凹みと漏水があった。基地に帰艦したあと、潜水艦員の伝統にならい、ペトロフと私は、船団長と共に艦内に招待された。「気兼ねがなければ窮屈もまた楽し」で、航海で残った物資で即席の「宴会」が設けられた。ウォッカを入れたブリキのコップや缶詰が、手から手へと渡された。人々は文字通り重なり合うように座っていたが、賑やかで陽気にしていた。陽気なおしゃべりのさなか、誰かがコップを落とし、それが大きな音を立てて床に落ちた。するとその瞬間、座っていた潜水艦員たちが、勇敢さを保とうとしていた者たちが、ビクッとした。それは、条件反射だった。彼らは直前まで二十四時間ぶっとおしで爆発音を聞き続け、限界まで疲れきって、ようやく立っているような状態だったのだ。宴会のあとで、若い機械係が、ペトロフを自分の船室にひっぱっていき、そこで何かをペトロフに見せはじめた。極度の集中と疲労から百グラムのウォッカを飲んだその男は、もはやすっかり酔いが覚めたともいかず、おそろしいまでの入念さで、自分の船室についた凹みを一つ残らずペトロフに示し、触って確かめさせようとしていた。ペトロフはまじめな態度で、その男といっしょになって身をかがめ、あちこちの機器にぶつかりつつ、室内のさまざまな隅にもぐりこんでいった。それがおよそ三十分も続いた。とうとう私はがまんができなくなって、ペトロフを助けだそうとした。
「待ってくれ」と彼はほとんど怒ったように言った。「待ってくれ、まだ全部見ていないんだ」それからさらに十五分、完全に満足のいくまで、彼は機械係といっしょに這い回っていた。地上へ出たとき、ペトロフは私にこう言った。
「きみ、どうしてわからないんだ! そりゃあ、私が凹みを全部残らず見たところで、何の意味もないさ。しかしあの男は、どうしても私にあれを全部見せて、自分たちが昨日までの悪夢のような一昼夜を、どうやって耐え抜いたか、語り聞かせたかったんだよ。彼を急かすなんてできるか?」当然、人として正しいのは私ではなく彼の方だ、と私はさとった。我々は北極の白夜のなかを飛行機でモスクワに戻った。約六百キロの行程を、前線に沿って飛行機は飛んでいた。エヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕は、はじめのうちはまどろんでいたが、あとになって隅っこに居場所を整えると、私からディケンズの『ニコラス・ニックルビーの冒険』を取り上げて熱心に読みはじめた。フライトは無事に済んだ。それから一、二週間たった晩、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕がホテル〈モスクワ〉の私の部屋に立ち寄って、おそらく明日の朝、セヴァストーポリに飛ぶことになると言った。そして、防水コートを持っていないかとたずねた。私は彼にコートを出してやった。コートを試着してから、彼はにっこりしてこう言った。
「さて、きみが私に不可侵を保障してくれるなら、私もきみのコートに不可侵を保障しよう。つまり、誰も待たないか、私とコートの両方を待つか、どちらかにしてくれ」これが、私が彼から聞いた最後の冗談であり、またそれが、聡明で茶目っ気のある彼の顔を照らした最後の微笑みだった。…〔ペトロフがセヴァストーポリに行った後、モスクワに戻る途中で墜落死したことは、前述のエレンブルグの回想で述べられている〕
I・イサコフによる回想(1963年)
…これもよく知られたことだが、 嚮導艦で負傷者や避難者を救助する際、『赤い星』の通信員はボランティアの衛生兵として働いていた〔ペトロフも『赤い星』の通信員〕。ひどく損傷した船を持ちこたえさせようとする総員戦闘体制が敷かれたときも、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕は、ある救命班の補助メンバーとなった。当然ながら肉体の疲労は自己主張をするし、ましてや神経が興奮しているせいで、せっかくの機会が巡ってきたときにも、彼はなかなか寝つけなかった。だが、彼にやつれた様子はなく、自分を見失うほどひどく不安定になったりもしなかった。いや、まったく相変わらずのエヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕だったが、以前のようには感情が表に出ず、周囲より自分の内面を見つめる人という感じであった。人々の中に新しいものを見出すと同時に、自分の中にもそれを見出す人だ。彼がモスクワに飛び立つ前日の夜、私たちは何時間かを共にした。ソビエト情報局が「セヴァストーポリの前線区域において、敵は甚大な損失と引き換えに前進に成功した」との報告を伝えていたが、そうしたクリミアの状況を彼に話そうとする者はいなかった。というのも、間近に迫る終局に関するこの報告の意味を推測できるほど、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕は軍事行動には詳しかったからだ。彼自身がセヴァストーポリに三日前まで滞在していて、その後なのだから、尚更だった。解散は夜遅かった。だが、定められた飛行機の出立時刻の二時間前、太陽光が降り注ぎ、一面にぶどうの蔓が巻きついたテラスへ出た私は、エヴゲーニイ・ペトローヴィチ〔ペトロフ〕が服も脱がずに長椅子の上で眠っているのを見つけた。周りには、手すりにも、階段にも、椅子の上にも、彼のメモが書かれた紙が散らばっていた。どの紙も、庭から持ってきた小石で重しをされ、枕元の脇には、水に浸かったせいで黒ずんだままの、潮あとがついた革製の図嚢がかけられていた。飛び立っていったペトロフは、申し分ない精神状態であるように見えた。きっと、三時間の睡眠が彼に力を取り戻させたのだろう。いつだって彼は、エネルギッシュで生き生きしているように見せたいのだった。朝は美しかった。もちろんこれは私の弱さなのだが、彼を飛行場へ送る段になっても、別れに際し、セヴァストーポリに関する、もっと新しくてもっと悪い知らせを彼に伝える気にならず、戦況は私が前線司令部に戻ることを要請していたため、〈ダグラス〉号のドアへ渡されたジュラルミン製のハシゴが外されるや、私は慌ただしく出立した。そして十六時ごろ、私は特電で呼び出された。
「貴殿は誰々か?」
「はい、私であります!」
「貴殿が作家のエヴゲーニイ・ペトローヴィチを乗せた〈ダグラス〉号を出したのか?」
「はい、私であります!」
「残念なことを伝えなくてはならないが、ペトロフ氏は墜落死した…」
「あなたはどなたですか?」私はまだ何かを期待しながら、叫んだ…
「チェルトコヴォの内務人民委員会の全権代表だ」我々皆が愛した作家の運命と結びついた悲劇的な事件の組み合わせは、普通とは異なっていた。1942年7月2日、ペトロフがモスクワに向かっていたまさにその時刻、ファシストの飛行隊が、ノヴォロシースクの海軍基地に対し、猛烈な爆撃による急襲をしかけたのだ。…

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