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連作短編『コロコラムスク市の尋常ならざる話』(1929)南米からの客 全訳

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▷『コロコラムスク市の尋常ならざる話』と題されたイリフ&ペトロフによる連作短編の第2話。全訳。 ▷ 第1話〈青い悪魔〉はこちら 。 ▷〔〕は訳注(読みがな、意味など)。 コメンタリーはこちら 。 ▷2025.1.3 改訳更新。 _______  ある日曜の朝、メストコモフスカヤ大通りに、それまでコロコラムスクで見かけたことのない紳士が姿を見せた。チェビオット羅紗で仕立てた薔薇色のスーツに、星柄のネクタイを身につけている。紳士からは、かぐわしい草原の香りが漂ってきていた。放心したようにあたりを見回すその丸々した顔には、螺鈿のように輝く感激の涙が伝っていた。珍妙なその紳士の後ろを、色とりどりのスーツケースを積んだ手押し車が駅のポーターに押されてついていった。  チレンスカヤ広場までたどり着くと、その行列は止まった。そこには、コロコラムスクの町と、町を迂回して流れるズブルヤ川のすばらしい眺めがひらけており、薔薇色の紳士はわっと泣きだした。ポーターも形ばかりすすり泣いてみせたが、その際、ポーターからは息苦しいほどのウォッカの匂いが漂ってきた。  このような状態でいるところを、小一時間たって偽協同組合「個人労働」議長ムッシュ・ホントーノフが見かけた。彼は組合の用事で広場を通りかかったのであった。  その見知らぬ人から十歩離れたところで立ち止まり、ホントーノフは驚いてたずねた。 「パルドン 〔すみません〕 、どこでそのようなスーツを手に入れられたので?」 「ブエノスアイレスです」と、泣いている紳士は答えた。 「では、そのネクタイは?」 「モンテビデオです」 「あなたは一体どなたです?」ホントーノフは叫んだ。 「私はコロコラムスクの人間ですよ!」紳士は答えた。「ゴラツィオ・フェドレンコスです」  偽協同組合議長の喜びようといったらなかった。薔薇色の太っちょの腰をつかんで宙ぶらりんに抱き上げると、音をたてて接吻し、大声で質問を浴びせた。  十分もすると、ホントーノフはすべてを知ることとなった。かつてゲラシム・フェドレンコと呼ばれた男が、今から三十年前にコロコラムスクをあとにし、ダイヤモンドの鉱床を探しあてて前代未聞の金持ちになった。しかし、ゲラシム改めゴラツィオとなったのちも、彼は南米の広野をさまよいながら、故郷コロコラムスクをひと目なりとも見たいと夢見ていた。そして今、ゴラツィオ...

作家ペトロフの最期の日々(1942年7月)

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▷ペトロフは晩年、従軍記者として各地で働き、1942年7月2日、飛行機の墜落事故で死去した。 ▷同時代人による回想を抜粋・訳出(エレンブルグの回想は木村浩訳を抜粋・引用)。 ▷文中の〔〕はブログ注。 _______ イリヤ・エレンブルグによる回想(1962年)  …エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ 〔ペトロフ〕 にとっては、イリフの死は大きな打撃であった。最大の親友を亡くしたことが悲しかったばかりではない。イリフペトロフと呼ばれていた作家は死んでしまったことが、彼にはわかっていたからである。一九四〇年、久方ぶりで会った時、ペトロフは、彼にしては珍しく滅入った様子でいった−−「私は何もかも最初からやり始めなければなりません…」  彼はどんな作品を書いたことだろう? ちょっと察しがつかない。彼は偉大な才能と独特な精神的風貌とを持っていた。が、彼は自分の力量を示すことができなかった。戦争が始ったのだ。  彼は縁の下の力持ち的仕事を遂行していた。海外での情報宣伝活動に従事していたソヴィエト情報局の総裁はS・A・ロゾフスキイであった。  わが国の情勢は多難で、多くの同盟国はわが国を見限ろうとしていた。アメリカ国民に真実を語る必要があった。ロゾフスキイは、わが国の作家やジャーナリスト中には、アメリカ人の心理を理解し、彼らのために引用や紋切型の文句を使わずに物の書ける者が少ないことを知っていた。こうして、ペトロフは大通信社ナナ(ヘミングウェイをスペインに派遣した通信社)の従軍記者となった。エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ 〔ペトロフ〕 は、勇敢に、辛抱強く、この仕事を遂行していった。彼はまた、『イズベスチヤ』と、『赤い星』にも記事を書送っていた。  私たちはホテル「モスクワ」に住んでいた。戦時下での最初の冬だった。二月五日、灯が消え、エレベーターが止った。ちょうどその夜、エヴゲーニイ・ペトロヴィッチ 〔ペトロフ〕 は爆風による打撲傷を負ってスヒーニチの戦闘から戻ってきた。彼は同行の人たちに自分の体の具合をかくして言わなかったが、やっと階段を十階まで這い上がるや倒れてしまった。私は二日目に彼を訪れた。彼は物を言うのも大儀そうだった。医者が呼ばれた。だが、彼は寝たまま戦闘の記事を書いていた。  一九四二年六月、形勢すこぶる憂鬱な頃、私たちは同じホテルに住むK・A・ウマンスキイの部屋にいた。I...