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長編『十二の椅子』(1928年)第1章 翻訳

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▷長編小説『十二の椅子』第1章を訳出。A・イリフによる増補版を底本に使用。 ▷文中の〔〕は訳注、または読みがな。 第1章 ベゼンチュークと〈妖精 〔ニンフ〕 たち〉  ある地方の町Nには、たくさんの理容室と葬儀社があった。たくさんありすぎて、この町の住民が生まれてくるのは、顔を剃ってもらい、髪を切ってもらい、頭にヘアオイル〈ヴェジェターリ〉をつけてもらってさっぱりしたら、すぐさま死ぬ、そのためだけであるかのように思えるほどだった。しかし、実際にN町の人々が生まれたり、顔を剃ったり、死んだりするのは、ずいぶんまれなことだった。N町の生活は、この上なくおだやかであった。春の宵はうららかで、ぬかるみが月光の下で無煙炭のように光っていた。そして町じゅうの若者は、その大半が、公共事業の地方委員会につとめる秘書の女の子に恋をしていて、そのせいで彼女は会費が集めにくくなっていた。  愛と死の問題がイポリート・マトヴェーヴィチ・ヴォロビヤニノフを悩ませることはなかった。そうした問題を扱うのが彼の仕事であったにもかかわらずである。彼は、三十分の食事休憩をはさんで、朝の九時から晩の五時まで毎日その仕事についていた。  毎朝彼は、葉脈の模様のついた磨りガラスのコップで、クラヴジヤ・イヴァーノヴナが出してくれた温かいミルクを一杯飲むと、薄暗い家を出て、風変わりな春の光が降りそそぐ、がらんとしたグベルンスキー同志通りに出るのだった。その通りは、地方の町で出くわす通りの中では最も好ましい部類だった。左手には、緑がかった波ガラスの向こうに、葬儀社〈妖精 〔ニンフ〕 たち〉の棺が、銀色の光を放っていた。右側には、目地がはがれ落ちた小さな窓の向こうに、棺桶職人ベゼンチュークの樫製の棺が、陰気にほこりをかぶって寂しく横たわっていた。その先では〈理髪職人 ピエールとコンスタンチン〉が、顧客に〈ネイルケア〉と〈自宅でのオンデュラシオン 〔=パーマネント〕 〉を約束していた。さらにその先には、美容室を併設したホテルが場を占め、その向こうの広い空き地では、麦わら色をした仔牛が、門扉だけがさびしく突っ立ったところに立てかけられている錆びた看板をそっと舐めていた。そこにはこう書いてあった。 葬儀事務所 〈ようこそいらっしゃいませ〉  葬儀用の倉庫はたくさんあったが、その顧客のふところはさびしかった。〈ようこそいら...

作家イリフの最期の日々(1937年4月)

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▷イリフは1937年4月13日、結核で死去。 ▷ペトロフと友人アルドフによる当時の回想を抜粋・訳出。 ▷文中の〔〕は訳注。 ▷ナボコフの手紙も引用して紹介。 _______ エウゲーニー・ペトロフによる回想(1942年) … 〔1937年〕 4月のはじめ、わたしはいつもの時刻にイリフのところへ降りていった 〔ペトロフとイリフは、当時同じ建物に住んでいた。ペトロフは5階、イリフは4階〕 。イリフは幅広のオットマンに横になり、マヤコフスキーを読んでいた(彼はいつもそこで寝ていた。寝具は日中のあいだ引き出しにしまってあった)。オットマンと床には、読み終えた新聞が置かれ、何冊かの本もあった。イリフは大変な読書家で、とくに専門的なものを好んだ。例えば戦争文学や海洋文学などだ。〔中略〕  その日彼はマヤコフスキーを読んでいた。  「彼の散文を読みかえしてごらんよ」起き上がって本を脇へどけると、イリフはそう言った。「どれもすばらしいから」  イリフはマヤコフスキーを愛していた。イリフを有頂天にさせるものがマヤコフスキーにはあった。才能、背丈、声、言葉を操る卓越した力、そして何より、文学的な高潔さ。  わたしたちは執筆のために腰かけた。イリフは具合が悪そうだった。ほとんど寝ていなかった。 「また今度にしようか?」とわたしはたずねた。 「いや、体を動かせばよくなる」と彼は答えた。「そうだ、最初は紙を切り分けよう。ずっと前からこれをやるつもりではいたんだ。なぜかこの紙のせいで落ち着かなくてね」  先日のこと、誰かが良質な紙をイリフにプレゼントしたのだが、それは巨大な用紙で十数キロ分もあった。わたしたちはその紙を手に取って、半分に折ってハサミで切り、また半分に折って、ハサミで切っていった。はじめのうち、わたしたちはこの作業をやりながらおしゃべりをした(執筆したくないときはどんなことでも楽しいものだ)。そのうち集中しだし、わたしたちは黙って、すばやくやっていった。 「どっちが早いかな」とイリフは言った。彼は何とかしてうまく仕事を合理化し、ものすごいスピードで紙を切っていった。わたしは遅れまいと必死になった。目も上げずに手を動かしていった。とうとう、何かの拍子にイリフのほうを見たわたしは、その顔の青さに戦慄した。彼は汗をびっしょりかいて、重くぜいぜいと息をついていた。 「もういいよ」...