長編『十二の椅子』(1928年)第2章 翻訳
▷長編小説『十二の椅子』第2章を訳出。A・イリフによる増補版を底本に使用。 ▷文中の〔〕は訳注、または読みがな。 ▷登場人物①:イポリート・マトヴェーヴィチ・ヴォロビヤニノフ (元貴族。ロシア革命後の今は地方のN町で役所づとめ。52歳) ▷登場人物②:クラヴジヤ・イヴァーノヴナ・ペトゥホワ (ヴォロビヤニノフの姑。娘はすでに死に、婿のヴォロビヤニノフとふたり暮らし。心臓発作で倒れる) _______ ( 第1章から読む ) 第2章 マダム・ペトゥホワの最期 クラヴジヤ・イヴァーノヴナは、仰向けに寝て、片手を頭の下に差し込んでいた。頭には、濃いアプリコット色のナイトキャップをかぶっていた。こうしたナイトキャップは、ご婦人がたがマーメイドラインのスカートを身につけて、アルゼンチン・タンゴを踊り始めたばかりの頃に流行したものであった。 クラヴジヤ・イヴァーノヴナの顔つきは厳かではあったが、のっぺりとして何の表情もなかった。目は天井を見つめていた。 「クラヴジヤ・イヴァーノヴナ!」とイポリート・マトヴェーヴィチは呼びかけた。 姑は唇を小刻みにふるわせたが、イポリート・マトヴェーヴィチの耳には、耳慣れたトランペットのようなけたたましい音の代わりに小さなか細いうめき声が聞こえ、哀れをそそられた彼の心臓はぎゅっと締めつけられた。思いがけずキラキラした涙が目からあふれ、あたかも水銀のように頬を滑っていった。 「クラヴジヤ・イヴァーノヴナ、」とヴォロビヤニノフは繰り返した。「どうなさったのです?」 しかしまたしても答えは得られなかった。老女は目を閉じ、かすかに体を動かして脇を向いた。 農業技師夫人が静かに入ってきて、子どもを手洗いに連れていくような手つきでヴォロビヤニノフの手をとり、彼を部屋から連れ出した。 「眠られたんですよ。お医者さんが、安静にさせなくちゃいけないって。ね、いいこと、薬局へ行ってきてくださいな。これが処方箋です、それと、氷嚢がいくらするか、教えてくださいね」 この手のことは間違いなくクズネツォワ夫人のほうが上手だと感じたイポリート・マトヴェーヴィチは、夫人に全面的にしたがうことにした。 薬局まで走っていくには遠かった。処方箋をギムナジウム式にこぶしの中に握りしめると、イポリート・マトヴェーヴィチは急ぎ足で表へ出た。 もうほとんど暗くなって...