オスタップ・ベンデルの復活
▷イリフとペトロフの代表作『十二の椅子』『黄金の仔牛』に続編の予定はあったのか? ▷主人公オスタップ・ベンデルの復活は構想されていたのか? ▷そのヒントとなる1933年と1936年(あるいは1937年)の記事・メモを掲載 ▼1933年8月24日、コムソモーリスカヤ・プラウダ さかのぼること1933年6月29日、白海とバルト海を結ぶ運河が完成した。 1931年9月からはじまったこの運河の建設には、のべ30万人以上の受刑者が投入され、数万とも十数万ともいわれる死者を出して完成した。 もちろん、スターリンをはじめとするソビエトの指導部は、こうした事実に目をつぶり、運河建設を国家的勝利、受刑者の再教育の成果と喧伝した。 そして、当時の作家たちがその宣伝にひと役買っていた。 1933年8月17日、ゴーリキー、シクロフスキー、カターエフ、ゾーシチェンコ、A・トルストイら作家180人が、運河を視察。イリフとペトロフもその中に含まれていた。 そして1週間後の8月24日付のコムソモーリスカヤ・プラヴダに、作家たちの運河訪問記事が出た。運河建設を喜ぶ詩や散文が掲載されるなかに、イリフとペトロフの書いたつぎの文章があった。 文章は〈第三の小説〉と題され、『十二の椅子』と『黄金の仔牛』の続編の要請が、33年当時(あるいはそれ以前)にはあったことが、その内容からうかがえる。 _______ イリフ&ペトロフ 第三の小説 我々はよく聞かれたものだ。オスタップ・ベンデルをどうするつもりかと。我々の書いた『十二の椅子』と『黄金の仔牛』に出てくるこの主人公は、ふたつの小説の中で、模範的にふるまっていたとは、とてもいえない。 答えるのはとても難しかった。 我々自身にもわからなかったのだ。この主人公に定住生活をさせる第三の小説を書かねばならない事態はすでに生じていたが、どう書いていいのか、まだわかっていなかった。 彼が、半ばはぐれ者のままでいるのか、もしくは、社会の有用なメンバーになるのか。なったとして、読者はそんな急激な変革を、信じてくれるのかどうか? そうやって我々がこの問題を熟考しているあいだに、どうやら小説は書き上げられ、世にでていたようだ。 それは白海運河で生まれていた! 我々はそこで、自分たちの主人公と、彼よりもはるかに危険な過去をもつ大勢の人間を見た。 彼らは、全部でたった...