ペトロフが語るイリフの思い出|回想録『イリフの思い出より』(1939年)訳 2/4
(1から読む) 2 そうしていま、わたしは、イリフがその人生最後の年にすばらしい手記を書いていたタイプライターにひとりで向かっている。部屋は静かでがらんとしていて、そして書かなくてはならない。慣れしたしんだ「わたしたち」という言葉のあとに初めて、空虚でつめたい「わたし」という言葉を書きながら、わたしはあの青春の日々を思い出している。 それはどんな風だっただろう? わたしたちふたりはオデッサに生まれ育ち、モスクワで出会った。 一九二三年のモスクワは、よごれて、荒れるがままに放置された、無秩序な街だった。九月のおわりに最初の秋雨が降ると、丸石で舗装された道の泥は初霜のころまでほうっておかれた。獲物街〔オホートヌイ・リャド〕と食いしんぼう街〔オブジョールヌイ・リャド〕では、個人商人が商売をしていた。荷馬車が音をとどろかせて行きかっていた。干草が散乱していた。ときおり民警のホイッスルが鳴りひびき、すると無許可営業の商人たちが籠や木箱で道ゆく人を押しながら、緩慢でふてぶてしい態度で路地へと散っていくのだった。モスクワ人たちはそれを不快そうに見つめていた。あごひげも生えた大の男が、赤い顔をして目を見ひらいて通りを逃げていくさまは気持ちのよいものではない。アスファルトで固められたボイラーのそばには浮浪児たちがすわりこんでいた。路端には辻馬車がとまっていた—— 奇妙なかたちをした馬車で、大きな車輪と、ふたりがやっと座れるほどのせまい座席がついている。モスクワの辻馬車の御者は、ひび割れた翼をもつプテロダクティルスに似ていた—— 時代おくれの遺物で、そのうえ酔っぱらっていた。その年、民警に新しいユニフォームが支給された。黒い毛皮のコートと、灰色の人工ラムスキンでできた防寒帽の表には赤いラシャが張ってあった。民警は、この新しいユニフォームをとても自慢にしていた。しかし、それよりもっと自慢にしていたのは赤い警棒で、きびきびしているとはいいがたい通りの往来を指揮するために支給されたものだった。 モスクワは飢饉の年のあとでお腹を満たしつつあった。破壊された古い生活様式にかわって、新しい生活様式がつくられていった。モスクワには、この巨大な都市を征服しようとする地方の若者の大群が押しよせていた。日中のうち、彼らは職業紹介所のあたりにたむろしていた。夜はターミナル駅や遊歩道で眠るのだった。...